*BL小説* 全作品R18です。 閲覧は自己責任でお願いいたします。
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
少し辛そうに寄せられる眉。けれど徐々に理央の身体から力が抜けていくことがわかる。真が慣らすのを最後まで渋っていた理央だったが、目の前で反り返る真の硬茎を見て信用する気になったらしい。
清めるところから、一つひとつ理央の身体を確かめていく。シャワーの音に掻き消されて理央の声はほとんど耳には届かないが、触れるたびに腕の中で小さく跳ねた。
どうにも直視するのは憚られるらしい。肩に顔を埋めたまま、少し上がった息が真の首筋にかかる。
「んッ・・・ぁ・・・」
理央の身体が強張るのと同時に、彼の腰前で揺れていたモノがさらに硬くなる。気持ちの良いところに真の指が当たったのかもしれない。同じ箇所を攻めれば、腕の中で理央が幾度も跳ねる。
「気持ちいい?」
「ぁ・・・おかしく、なる・・・んッ、ん・・・」
必死に理性を保とうとしていることを歯痒く感じる。早くまともな思考など手離してしまえばいい。
「理央、声我慢するなよ。俺しか聞いてないから。ちゃんと感じてる声、聞かせて?」
「や・・・はずかし・・・」
少し意地悪をして増やした手で攻め立てる。
「ぁッ・・・」
切なく鳴いて、理央の先端から勢いよく飛沫が散る。理央の身体が震え、脱力して真に寄りかかってきた。気持ち良さを超え、かなりの衝撃だったのだろう。顔を覗き込むと目が虚ろで、火照った顔が色っぽかった。真も下半身に這い上がってくる疼きをどうにかしたくなる。
「理央、上がろうか。」
惚けている理央の身体を再び清めて、吐精して散ったものを洗い流す。身体に触れるもの全てが刺激になるのか、シャワーをあてるだけで辛そうな顔をする。
水滴が肌の上で玉になっているのを見て、その弾力のある肌に吸い付きたくなる。欲望に逆らわず唇を寄せると、理央が小さく息を呑む。
「真さん、もっと激しくして・・・」
中途半端に嬲られるのが耐えられなくなったのだろう。真の硬茎に触れて手で扱き始める。リズム良く刺激され、視覚的にも目の毒だ。先端にジワリと透明な先走りが光り、途端に込み上げてきた射精感に堪らず理央の手を掴んだ。
「ベッド行こう」
バスタオルで互いの肌を大雑把に拭って、何も纏わないままベッドへ直行する。ベッドの縁に座らせて、そっと組み伏せる。互いに勃ち上がったものが触れて、その熱さに呻きそうになる。
するりと理央の手が伸びてきて、真の陰茎に再び触れる。そして確かめるように撫でていく。
「ッ・・・理央、あんまりされると出る・・・」
気を抜くと弾けそうになる。
「だって、ちゃんと反応してるのが嬉しくて・・・」
射精を誘う触れ方ではなく、優しい愛撫。けれど好きな人に触られると、それだけで神経が高ぶる。
「ちょっとだけ、したい。」
手の愛撫を止めぬまま、身体を起こしてきた理央に、真はその意図に気付く。理央が硬茎を口に含むのをスローモーションのように呆然と眺める。
温かい口内に招き入れられて、その快感に大きく肩で息をした。飴を転がすように舌が動いて、堪らず呻く。
「ッ・・・」
達せないように緩く吸われて、頭に血が上る。舌が先端をくすぐり始めてこじ開けようとするので、我慢も限界で理央の肩を押しやる。
「挿れたい・・・」
「うん。」
期待に満ちた目が見上げてきて、目眩がしそうになった。
「あんまり優しくできそうにない・・・。どうするのがラク?」
「後ろからして。」
理央が完全に背を向けてくる前に、彼の腰を抱える。秘部と自分の硬茎にたっぷりとローションを垂らして、後孔の具合を指で確かめる。するりと呑み込んでいくのを確認してから、硬く反ったモノを充がう。
「真さん・・・ぁ・・・あぁ・・・」
腰を進めると、想像していたような抵抗に合わず、ゆっくりと陰茎が呑み込まれていく。蠢いて締め付けてくる内部に、真も甘い息を漏らした。
「ぁ・・・理央・・・動いて、いいか?」
腰に響く蕩けそうな快感に、我慢できずに返事も待たず腰を前後させる。顔が見えない分、快感に貪欲になってしまい、気遣う余裕もなくなってくる。
「まこと、さ・・・ッ・・・ん・・・ぅん」
理央が真の律動に合わせて声を漏らす。その声に色を感じて、ちゃんと彼も快感を拾ってくれているのがわかる。そう思うと、もう動き出した腰を止めることができなかった。
「んッ、ん、ぅ・・・」
最初は手で突っ張っていた理央だったが、すっかり支えきれなくなって枕に崩れ落ちる。真が抱え上げている腰が突き上がるかたちになり、挿入がより深くなる。
「あぁッ・・・ん、んぅ、ッ・・・」
一際感じ入った声が上がり、それに誘われるように、真も挿入を激しくする。先端の柔らかい丸みのある部分が理央の奥に当たる。吸い込まれるような快感が堪らなくて、それを求めて何度も腰を突き入れる。
ベッドのシーツに理央の先端から溢れた蜜が染みを作っていく。もういつ達してもおかしくない状態だ。しかし身体を震わせているだけで、達する気配がない。
「まこ、と、さ・・・まえ・・・ッ・・・」
理央の言葉に促されて、彼の濡れた陰茎を手で扱く。すると幾度もしない内に手の中で波打って、シーツの上に白濁の液が叩きつけられる。
「ぅッ、ん、んッ、ぁ・・・」
「ぁ、理央ッ・・・」
急に訪れた強烈な締め付けに、真の腰も震える。達して完全に脱力した理央の腰を抱え直して二度、深く奥を抉った。
「くッ・・・」
腰を引くことすら頭にないまま、真は奥に欲望の飛沫を放つ。あまりの気持ち良さに、目の前が真っ白になる。
「ぁ、くる・・・」
理央のうっとりした声に誘われるまま、熱の放出が止まるまで腰を小さく揺らして打ち付ける。柔らかくなっていく陰茎に、理央の内部もかたちを合わせて変化する。締め付けの心地良さに、射精がいつもより長く感じた。
セックスがこんなに気持ち良いものだなんて知らなかった。相手を想う気持ちで、これほどまでに違うものなのか。
「理央・・・平気?」
「うん。きもちい・・・」
萎えたものをゆっくり腰を引いて抜いていく。すると一緒に自分が放ったものが零れ落ちた。その感触に理央の身体が震えて完全に脱力する。
「ごめん、辛い?」
「ううん。気持ち良過ぎて、おかしくなりそう・・・」
うつ伏せの姿勢から上半身を捻って見上げてくる。上気した頬が色っぽく、汗ばむ肌が艶かしい。
「真さんは、どうでした?」
「・・・あんな夢中にさせておいて言わせるのかよ。」
「だって、ちゃんと言葉で聞きたいじゃないですか。」
にっこり微笑んでくるその顔は魔性そのものだ。気恥ずかしさより、喜ばせたい気持ちの方が勝る。
「こんなに気持ち良くなったのは・・・初めてだったよ。」
「俺も。だってね、好きな人とするの、初めてなんです。」
嬉しそうにはにかむ頬に口付ける。情事の後にこんなベラベラと喋るのも、身体が高ぶったことをストレートに伝えるのも初めてのことだ。
もう一度口付けようとしたら、背に理央の腕が回ってきて、身動きが取れなくなる。横抱きで向かい合うと、理央がまた嬉しそうに笑って、キスを贈ってきた。
「真さん、好き・・・」
惜しみなく言葉で紡がれる好意に、少し真は照れ臭くなってくる。火照り始めた顔を見せたくなくて、顔を背けた。
「真さん、今さら恥ずかしくなったんですか?」
「・・・そうだよ。悪いか?」
理央が可笑しそうに笑うので、少し不貞腐れていると、背後から抱き締められて笑い声が止んだ。
「眠くなっちゃいました・・・」
吐精すると眠くなる。男なら大概そうだ。笑ったり眠くなったり、忙しいやつだなと思いつつ、それが嫌ではない。欲望に素直で、むしろ羨ましい。
「寝るか。」
「はい・・・」
振り返ると本当に眠そうに目を擦っている。庇護欲をそそられる行動に、つい理央の頭に手が伸びて撫でてしまう。理央は不思議そうな顔をしたが相当眠かったらしい。すぐに瞼が落ちていく。二人で寝るには狭いベッドが、この時ばかりは嬉しい。
照明を落として、身を寄せ合い、真も瞼を閉じる。隣で早速寝息を立て始めた理央に誘われて、真も眠りの世界に引き込まれていった。
たくさん注文をしたわりには、真の皿に取り分けるだけで自分は食べようとしない。職場では拍子抜けするくらい普段通りだったのに、二人きりになった途端人が変わったように目を合わさなくなった。
大した遅れもなく飛行機は無事着いて、市内の渋滞に巻き込まれつつ、そのままマレーシア支社入りした。歓迎会をしようとラーマンやオットが盛り上がっていたが、忙しくない日に改めて、ということで落ち着いた。理央との約束があったので、それとなく話の流れをそうなるように誘導したのだ。
「これ、初めて見るやつだな。何ていう食べ物?」
「ロジャッ、っていって味は甘辛い感じです。ここのは野菜がメインだから食べやすいと思います。果物も混ぜたりするけど、それだと真さんは苦手でしょ?」
「ああ、そうかも。」
ピーナッツソースをつけて食べる焼き鳥は、もはや見慣れたものだ。サテという名の食べ物であることも初日に聞いた。慣れれば癖になる味だ。
「こっちのご飯はココナッツミルクで炊いてあるやつで、そっちはターメリックで炊いたやつ。」
「ターメリックの方はピラフみたいな感じ?」
「そうです。ココナッツミルクの方も、多分想像するほど癖はないですよ。」
「食わず嫌いは勿体ないからな。一通り食べてみるよ。」
笑いかけると照れ臭そうに視線を泳がせて、そのまま視線はテーブルに着地する。
「食べたかったんじゃないのか?」
「・・・。」
テーブルの上に無造作に投げ出された手の先に触れる。ピクリと肩が跳ねて、彼の意識がそこに集中するのを感じる。人の目のあるところは、理央を疲れさせるのかもしれない。
「ほら理央、俺一人じゃ、こんなに食べられないよ。食べるぞ。」
恥ずかしそうに頷いた彼に苦笑して、真はなに食わぬ顔で焼き鳥に手を伸ばした。
帰りのタクシーの中で窓の外ばかり眺めて真の方を見ようとしない。男同士、外での距離の取り方に迷うのはわかる。しかしあまりにつれなくされると寂しくもなる。けれど気持ちはわからないではないので、理央の好きなようにさせた。
タクシーがコンドミニアムの敷地内に入って支払いを済ませる。外に出る前に辺りの様子を一度確認して、扉を開いた。コンドミニアムの敷地内だからといって、安心なわけではない。ここは日本とは違う。用心に越したことはないのだ。
二人で降りて足早にエスカレーターまで歩く。扉を閉めたところでようやく一息ついた。ちらりと横に並ぶ理央を見ると、少し肩の力を抜いたようだ。ようやく真の視線を受け止める。そして同時に目的の階に辿り着いて扉が開く。目の前は理央の部屋だ。俯いてばかりの彼を満足に拝めなかったから、ここで別れてしまうのが惜しくなった。
「理央、上がっていい?」
「・・・はい。」
適当に何か買い込んで、さっさとここへ来れば良かったかもしれない。満更でもない顔で頷かれて、真はドアを開けるよう、理央を促した。
先に通されてドアの閉まる音を後ろで聞く。すると同時に背中に小さな衝撃を受ける。少し間を置いて、抱きつかれたのだと気付く。
「真さん、ちょっとだけ・・・」
首筋に顔を埋めて、背後から腰に手が回る。お互いしばらく無言で身動き一つしなかった。けれど穏やかながらも確実に劣情が湧いてくる。先に沈黙を破ったのは理央の方だった。
「真さん・・・今日、泊まっていって・・・」
腰に回された手を掬って、彼の手の甲に唇を寄せる。
「そのつもりだよ。」
「あの・・・真さんさえ良ければ・・・抱いて欲しいんです・・・」
遠慮がちな声音なのに、言うことは限りなく直球だ。理央はオブラートに包むことを昔からしない。こういうところでも発揮される彼らしさに可笑しくなる。張り詰めている空気を少し柔らかく感じるくらいには心が和んだ。
「抱きたいよ。抱かせて。」
理央の腕を身体から解いて振り向く。不安げな顔に口付けて、緊張を振り払うように少し勇んで部屋へ上がった。
部屋の間取りは真の部屋と同じだ。バスルームまで迷わず手を引いていく。立ち止まり向き合って、理央のシャツのボタンに手を掛けた。
「経験あるのか?」
「結構前ですけど・・・あります。」
「男同士のことはわからないんだ。教えてくれ。辛い思いはさせたくない。」
「・・・うん。でも、引かれたらショックだな・・・。やっぱり、慣らすのは自分で・・・」
この期に及んで悩み始めた理央に苦笑する。信用されていないことに少し悲しくもなった。
「ッ・・・」
理央の額に自分の額を合わせて、諭すように告げる。
「全部知りたい。好きだから知りたいんだよ。教えて、理央・・・」
心の底から欲しいと思った人を抱くのは、多分初めてだ。自分の必死な気持ちが伝わってくれるといい。
理央から目を逸らさずに、ジッと瞳の奥を見つめる。迷って揺れた瞳も、ブレない真に観念したのか、震える唇が真の唇に重ねられた。
一週間という短い帰国の間に異動の内示を受け、プライベートな時間は借りていたアパートの始末や各種手続きに追われた。いざ引っ越すと言っても、これといって持っていく物もない。出国ギリギリまでアパートにいることは手続き上できなかったので、最後の二日はホテル住まいだ。
「進行具合は予定通りってことだな。早め早めの方が何かあっても猶予があるから助かるんだけどな。まぁ、そこは日本と違うからトラブルがあったらその都度どうにかするしかないな。」
『アブバカールさんがね、マレーシア発のレトルト食品を日本で出すようなことがあったら、パッケージやらせて下さい、って言ってました。真さんにも、そう伝えてほしいって。』
「アジアのものは女性受けが良いし、マレーシア支店発の商品が作れるなら面白いね。前向きに検討しておく、って伝えてくれ。」
『はい。』
「じゃあ、明日までよろしく。あ、そういえば・・・明後日の帰国の時、迎えに来なくても大丈夫だよ。高速バスもあることだし、荷物もこれと言ってないから。わざわざ来るのは面倒だろ。」
『え・・・いえ、でも・・・』
急に歯切れの悪くなった要因をすぐに察し、それでも来なくていいと断った。
「おまえは貴重な戦力なんだから、仕事が優先。空港から直接会社に向かうから、すぐだよ。」
『・・・。』
押し黙る理央に、電話越しに聞こえないよう声を出さずに苦笑した。少しでも早く会いたいらしい。それで迎えに来ると言い出したのだ。飛行機が着くのは始業前だが、手続きをしたり荷物を待っている間にも時間は過ぎていく。しかも朝のクアラルンプール市内は渋滞が酷い。
「理央、わかった?」
『・・・わかりました。』
明らかに納得していない口調だが、部下として言われていることはわかっているのだろう。不承不承という感じだが、返事を寄越した。
すぐにでも会いたい、だなんて可愛い我儘だ。どんな顔して言っているのか容易に想像できるだけに、ついつい会社にいるのも忘れて顔が緩みそうになる。勝田の視線が怖過ぎて危ない事は言えない。先ほどから勝田が聞き耳を立てていることに、真は気付いている。
「じゃあ、切るよ。」
『はい・・・。』
ほんの数秒、受話器が切れる音を待ったが、理央から切る気配がなく、真の方から受話器を置いた。きっと本当は、今夜電話がしたいとか早く帰ってきてとか、言いたいことがあったんだろう。けれどお互い会社だから馬鹿な真似はしない。ただ、名残惜しくて自分からは切れなかった。そういう事なんだろうと真は解釈した。
帰国後のバタバタで碌に連絡を入れていなかったら、痺れを切らして理央の方から電話をしてきた。それがつい昨晩のことだ。呂律が回っておらず、聞くと堂嶋に飲まされたらしい。寂しいだの薄情者だの、普段の理央なら言ってこないようなことを電話口で言い募り、最後の方には泣きが入った。
明るく快活なのが取り柄の彼も、真に会えないのが寂しいと言って泣いてくれる。酔っ払い相手に宥めすかして電話を切るのは一苦労だったが、そんなことすら愛おしい。帰ったら甘やかしてやろうと考えて、ふと気付く。マレーシアに仮赴任して二ヶ月ちょっと。自分にとってのホームはすでに彼の隣りに変わっている。
「小野村、電話見つめてどうしちゃったわけ?」
やはり勝田は聞いていたらしい。電話を置いて惚けている真に間髪入れず話し掛けてくる。
「いや・・・この二ヶ月、めまぐるしく色んなことが変わったなと思って。感慨に耽ってました。」
「あ、そう。でも聞いてる限りだと、良いスタート切れそうな感じだよね。まぁ、存分にやってきてよ。」
「勝田さん、投げてますよね完全に。」
真が冗談交じりに言えば、勝田も軽く答えてくる。
「人足らないからね。部下が優秀だと助かるよ。」
勝田は任せられると踏んだ者には自由に仕事をさせる人間だ。任せようと思うくらいには信頼されている。この人のおかげで形振り構わず走ってこられたと思っている。
「頑張ってきます。」
「そうそう、頑張ってきて。」
シンガポールに旅立つ時もこうやって送り出してくれた。だから今度も必ず結果を出したい。しかも次の舞台には自分の勇姿を見せたい者が待っているのだから。
真は自分のデスクで一つ伸びをして、残り最後の引き継ぎのために、パソコンへと向かった。
身体がいつもより火照っているのを感じて瞼を開く。すると大きな塊が自分にしがみついていた。真は自然に笑みを零す。しかし動こうにもしっかり背まで片腕が回され、身動きが取れない。首だけ回して時刻のわかるものを探したが、時計やそれに代わるものは見当たらなかった。二日酔いは全くない。むしろ久々に身体に燻る熱を発散して、頭がすっきりしたくらいだ。
「ん・・・」
真が動く気配を察知したのか、理央が身じろぐ。真の腿に理央の兆したものが布越しで当たって、若いなと呑気な事を思った。彼の頬にかかる髪をそっと手で払い除けると、理央の瞼がピクリと動き、間もなく開いた。
「・・・ぁ・・・」
「おはよう。」
「真、さん・・・?」
問いには答えずそっと唇を重ねて組み敷いた。寝起きの理央は焦った顔をするものの、頭が回らず力も入らないのか、されるがままだ。
「ぁ・・・ま、待って・・・」
否定の言葉を聞くと、どうやら自分は虐めたくなる質のようだ。理央の焦った声に腰の前が重くなる。
「そ、そんなつもりじゃなくて、朝だからッ」
腰を擦り付けて理央のモノを刺激すると、顔を真っ赤にして泣きそうな声で単なる朝の生理現象なのだと主張する。しかしそんな事は最初から真にはわかっている。わかった上でのちょっかいなので、理央の主張を軽く流していく。
「したくない? やめる?」
「ッ・・・だって・・・」
思い切り居た堪れないという顔をしてきて、理央は視線を逸らす。
「真さん、なんかキャラ違う・・・」
「おまえの事をね、こねくり回して・・・こうやって恥ずかしがる顔を見て、愉しみたいだけ。」
「趣味悪い・・・」
思い切りむくれて見せる姿につい笑ってしまう。誰が何と言おうと、やっぱり理央は可愛い。
「さて、起きるか。ご飯食べるぞ。」
「・・・。」
「なんだ? まんざらでもなかった?」
「もう・・・ホント、やだ・・・。」
すっかり怒った理央に、それなりの力で脛を蹴られて報復される。少し揶揄い過ぎたかもしれない。痛さで眉根を寄せて謝ると、ひとまず溜飲を下げたのか、むくれ顔のまま真の肩口に顔を埋める。
頬にそっと口付けると大人しく受け入れてくれる。気を良くして抱き締めると、途端に耳まで赤くした。
長年、上司と部下で過ごしてきた自分たちにとって、恋人になることへのハードルは低くはない。気恥ずかしさもあるし、小難しい問題もある。この関係は簡単に露呈させるわけにもいかない。
二人でゆっくり歩いていきたい。仕事では前へ前へと全力疾走しているからこそだ。大切なものをちゃんと理央と分かち合っていたいから、自分の素を隠したくはない。元来自分は特別真面目なわけではないし、こんな風に慕ってもらえるほどの人間だろうかと疑問にも思う。
「理央、俺のこと少しずつ知って。」
額を合わせて俯き加減の視線と目を合わせる。すると理央が本音をポツリと溢す。
「真さん・・・俺ね、真さんに嫌われたくない。真さんのこと沢山知りたいけど、自分を知られるのは怖い。幻滅されるかもって・・・」
「そんなのお互い様だろ?」
「・・・そう、ですか? 真さんも?」
「そりゃ、そうだ。」
目を逸らさず真が断言すると、返事の代わりにたどたどしいキスが返ってきた。真の後頭部に手を添え、恐る恐る重ねられた唇が愛おしい。微笑んで今度は真の方から唇を重ねると、ホッとしたように肩の力を抜いた。
この歳になって甘い恋を味わえるなんて思ってもいなかった。とても単純に、幸せだと思う自分がいる。
伸びをしながらベッドの上で身体を起こすと、理央も倣うように身体を起こした。今の自分なら窓の外の熱気に負けないくらいの気力が溢れている。立ち上がって、さぁ掃除だな、と口にすれば、理央がギョッとしたような顔で真を見た。
酒が程良く入り吐精もして完全に緊張が解けたらしい。舟を漕ぎ始めた理央をそのまま腕に閉じ込めて、二人でシングルのベッドにそのまま横になる。
達した直後は相当恥ずかしかったのか真の肩に顔を埋めたまま離れようとしなかった。けれどそのまま眠くなったらしい。肩口で静かな寝息らしきものを聞いて、真は頬を緩めた。
「理央?」
「ん・・・」
自分の腕の中にいることが俄かには信じ難くて、理央の身体にそっと手を触れてその存在を確かめる。整った顔を覗き込むと、思う以上に無防備な寝顔が見えた。
触れ合うだけでこんなに心が満たされた自分に驚く。淡白だと思っていたのに、一度触れたらもっとその先が欲しくなった。好きな気持ちを受け入れてもらえることが、こんなにも心を潤すなんて知らなかった。
「理央・・・」
もう一度名を呼ぶと、呼ばれていることに気づいているのか否か、擦り寄ってくる。理央は人懐こいし明るいが、可愛いという形容詞が一般的に当てはまるようなタイプではない。笑わなければ、むしろグレーの瞳が彼を冷ややかに見せるだろう。長身の真と背もほとんど変わらないし、細身だが筋肉質だ。女を感じさせる要素は何一つない。
けれど真はこの腕の中に閉じ込めた塊を可愛いと思う。脇目も振らず真っ直ぐ自分を見て、必死についてくる。まるで雛のようだ。それを健気で可愛いと思う。その気持ちを認めて受け入れるまで時間がかかってしまった。けれど今となっては、その気持ちが間違えだなんて思わないし、彼の瞳がずっと自分へと向けられていることを願っている。
理央が自分の与える刺激で快感を享受しているのを見た瞬間、どうしても手放したくないと思った。今まで誰かを抱いてそこまで強烈な独占欲を感じたことはない。自分にとって理央の代わりになる者などこの先現れないだろう。それを自覚したから、この関係を守り通して大切にしたいと思う。終わらせたくない。
穏やかな寝顔を見ていると、真にも段々と睡魔が襲ってくる。ライトのリモコンを視界が許す限り探すと、すぐにベッドサイドのテーブルの上に転がっているのを見つけた。身体を捩ってなんとか手に取る。
照明を消してしまうと、部屋の中は完全に闇と化す。しかし肌を伝ってくる温もりと、耳を擽る規則正しい寝息が、真の心に灯火を与えてくれた。目を閉じて息をつく。そして真もいつの間にか夢の中に意識を手放した。
カーテン越しにも強く降り注ぐ日差しの威力に負けて目が覚める。真は瞼を徐々に開いて部屋を見渡し、最後に隣りで寄り添う塊に目をやった。
寝入った時と同じ穏やかな顔で眠る理央は、どこまでも無防備だ。その寝顔を微笑ましく思いつつも、覚醒した頭が部屋の惨状も思い出し、真は理央の頬をつねった。
しかし少し眉を寄せただけで起きる気配はない。自分は一度目覚めてしまうと二度寝ができない性分だ。コーヒーでも飲むかと電気ケトルにミネラルウォーターを注ぎ入れ、スイッチを入れた。マレーシアは水道水が飲めない。浄化装置は付いているのだが、慣れていないと腹を下すこともある。極力危ない橋は渡りたくない。
朝食になりそうなものを探したが、冷蔵庫にはこれといって何も入っていない。何か買ってくるかとベッド脇に置いていた鞄に手を出した時、ベッドの上で理央が動き出した。
「ふぁ・・・」
間抜けな欠伸につい笑みが零れる。無防備もここまでくると色気の欠片もない。
「・・・?」
部屋を見渡していた眠気まなこが真を視界に入れた途端、驚きで見開けれる。
「ま、真さん!?」
「そうだけど。」
「えっと・・・えッ?」
慌てふためく理央につい我慢がきかずに吹き出す。寝癖の酷い髪が何だか愛らしい。
「昨日飲みに行って、そのまま潰れて寝たんだよ。誓って何もしてないからな。」
「ッ・・・」
目を瞬いていたが、急に頬を赤らめて俯いたので、昨夜のことを思い出したのだろう。
「すみません、俺・・・」
「まぁ、可愛い寝顔が見られたから許す。」
「・・・。」
耳まで真っ赤にして縮こまってしまった理央の横に座る。顔を覗き込むと、視線を感じたのかチラリと見上げて、恥ずかしそうにまた視線を逸らした。
「俺、ホント何やってるんだろ・・・」
「おまえのそういうところも、俺は好きだけど?」
調子に乗って揶揄えば、ついに耐え切れなくなったのか、思い切り腕を叩かれる。
「真さん、俺で遊ばないで下さいよ・・・」
「悪い、悪い。」
「全然悪いと思ってない。」
むくれた顔を抓っていたら、理央がハッとして身体を遠ざける。
「どうした?」
「お風呂入ってない・・・。ベッド、ごめんなさい・・・。」
急に萎れた理央に苦笑して、風呂に入ってこいと促す。そういう事には気が回るくせに、あの部屋の惨状はどういった領分なのだろう。
「理央、おまえ部屋が随分汚かったけど?」
「・・・見ちゃいましたか?」
「昨日バッチリ見させてもらった。」
「俺・・・片付けるの、苦手で・・・」
「そうみたいだな。」
カラ笑いをして誤魔化しにかかった理央に言いつける。
「今日は掃除だ。」
「・・・え?」
「掃除だからな。」
「・・・はい。」
完全に職場の上下関係に戻って、理央が深く項垂れる。恋人というには、甘い空気がほど遠い二人だった。
今日の告白に至った経緯を話せば、理央は完全に魂が抜けたように脱力した。
「どうしてよりによって、堂嶋さん・・・」
もう何度目かわからない言葉を呟いて、自ら潰れようとしているかのように、理央は度数の高い酒を浴びるように飲んでいた。真は理央のハイペースには付き合わず、冷静に横で宥めながらグラスを傾ける。
「もう、ホント、信じられない・・・週明け堂嶋さんに会いたくない・・・」
「朝から堂嶋のチームと会議だろ。」
「そんなのわかってます・・・っていうか、何で真さんそんな平気な顔してるんですか?」
別に平気なわけではない。堂嶋に知られているのは居た堪れないし、正直崩れ落ちたい気分だが、今さらどうすることもできない。要は開き直っているだけだ。
「午前中、半休じゃダメですか?」
「どうしても仕事が手に付かないって言うなら、いなくてもいいけど。でも、どうせすぐに顔合わせるだろ?」
「鬼ッ!」
「なんとでも。」
文句を言って、拗ねてくれるのも気を許してくれているからだ。甘い雰囲気とは程遠いけれど、それでもこういう時間が愛おしくて、真は心が安らいだ。
昔からそうだった。日頃は文句一つ言わないで黙々とついてくるくせに、酒が入ると少し開放的になって愚痴を溢す。しかし嫌味はなく、むしろ愛嬌すらある。そういう憎めないところが好きで、可愛いと思っていたのだ。
「真さん・・・」
「ん?」
「眠い・・・」
「おい、ここで寝るなよ。」
「お姫様抱っこ。」
「できるか、バカ。」
想像するのも憚られて、即座に却下する。酔っ払った理央の鼻を摘めば、少し照れたように笑った。
これは相当酔っ払っている。グラスの中身を口に運ぼうとする理央の手を止めて、引っ張り上げて立たせる。
「ほら、もう帰るぞ。」
「イヤです。もうちょっと。」
子どものように駄々を捏ね始めた理央をなんとか立たせて、引き摺るようにタクシーまで引っ張っていく。せっかく綺麗な夜景が臨めた日なのに、自分たちはどうやらそういうものとは無縁らしい。情緒の欠片もない展開にも、真は全く残念な気持ちにはならなかった。
十分ほどタクシーに揺られて着いたコンドミニアム。理央のポケットから何とか鍵を探り当て、ドアを開けて絶句する。
「おまえ・・・何でこんなに汚いんだ・・・」
「うん・・・?」
会社では身の回りを綺麗にしていたはずだ。ということは、どうも本性を隠していたらしい。
食べ残したようなものはさすがにないが、テーブル周りは本や書類が、ベッド付近には脱いだものが散乱している。しかも角には埃の塊まで見えて、真は無意識のうちに後退りをした。
自分では特別綺麗好きだとは思っていないが、この惨状はさすがに許容できず、理央を支えながら部屋を後にした。しっかり施錠して、自分の部屋へ向かう。泥酔している今、何を言っても駄目だろう。
真は世話の焼ける後輩に溜息をつきながら、理央を自分の部屋へと招き入れた。ベッドに横たえてやると、すぐに規則正しい寝息が聞こえてくる。
真はシャワーを浴びるのが面倒だと思いつつも、汗でベトついた肌をそのままにする気にはなれなかった。
すっかり気持ち良さそうに寝入っている理央に目をやり、また一つ溜息をついて彼のベルトに手を掛ける。そしてそのままスラックスを脱がせてハンガーに吊るした。後で皺になると厄介だ。子どもの面倒を見る母親のような心境に、何だか笑ってしまう。
「浴びてくるか・・・」
理央に背を向けてシャワールームへ向かう。身体は疲れて重くとも、心はふわふわと軽やかで満ち足りた気分だった。
仕事が一区切りつくとデスク周りを整えるのが真の習慣だ。身の回りも頭もリセットして新しい仕事に挑む。
けれど帰り際の今、片付けに勤しんでいたのは、浮き沈みの激しい心を宥めるため。理央のことが絡むと心に波が立つ。冷静でいようと思っても落ち着かず、自分から飲みに誘ったくせに往生際悪く逃げそうになる自分を何とか繋ぎ止めていた。
「真さん、俺もう出られますけど、まだかかりそうですか?」
「あ、いや、大丈夫だよ。出ようか・・・」
理央に声を掛けられて心臓が跳ねる。日本から正式に異動が決まって、こちらに腰を据えてからでも良いのではないかと思い始めて、そんな自分を叱咤する。タイミングとしては今日はベストだ。そして彼に話をすると約束していたのだから、ちゃんと約束は守りたい。
自分と堂嶋の早とちりだったら、とどこかで怯えている自分もいる。けれど理央の眼差しを見れば見るほど、好意がないと疑う方が不自然な気がした。
「俺、あそこのバー、一度も行ったことありません。なんか敷居が高くて緊張しそうで・・・」
真が連れて行こうとしているのはクアラルンプールが誇るツインタワーKLCCを臨むことができるバーだった。座っているだけで様になりそうな風貌をしておいて、大人の雰囲気に呑まれそうになるところはしっかり若者なのだなと思ってしまう。
「真さん、もしかして・・・保留の話ですか?」
「そうだよ。」
顔にサッと緊張が走ったのを見て、彼がどんな事を考えているかと思うと、少し申し訳なくなった。マイナスな事を想像しているようで、先ほどまでの陽気さが全身から抜け落ちたのを感じ取る。何か声を掛けるべきかと思ったが、結局大したフォローもできないままバーのカウンターへ着いてしまう。真もあまり心の余裕がなかったのだ。
バーテンダーにオススメのカクテルを注文し、理央にもどうするのか尋ねる。
「何飲む?」
「えっと・・・真さんと一緒でいいです。」
「じゃあ、同じので。」
二人でしばらく無言のままバーテンダーの動きを目で追う。理央の緊張がこちらまで伝わってきて、盗み見るように理央を視界に入れた。
それぞれの前にカクテルが出てきて、早速グラスを手に取ろうとした理央の動きを手で制す。すると少し驚いたように真の方を見た。
「酒飲む前に話したい。いい?」
「・・・は、い。」
早く打ち始めた心臓の音をどうにか収めるために肺に溜まっていた空気をゆっくり吐き出す。そして、理央の反応を何一つ取り溢さないように彼の目を見据えてゆっくり口を開いた。
「理央、俺はね・・・おまえと恋愛がしたい。」
「ッ・・・」
一度目を瞬いて、呑み込めない言葉を何とか咀嚼しようと彼の頭がぐるぐる回っているのがよくわかった。そしてすぐに目を逸らして動揺し始めた理央に、ゆっくり諭すように言葉を選んで話し始める。
「六年前言えなかったことを、ちゃんとおまえに伝えたくなった。もう二度と後悔したくないから・・・。」
何か考え込むようにしていた理央がぽつりと言葉を漏らした。
「もしかして・・・気付いてました?」
宥めるように彼の握り拳に手を合わせる。ハッとしたように理央が合わせた手を見た。しかし日本人の客は見渡す限りいないし、どうせ他の客もこちらなど見てはいない。真は一種の開き直りで重ねた手をそのままに会話を続けた。
「気付いたのはこっちに来てからだよ。当時は知らなかった。だからおまえの気持ちに感化されたわけじゃない。」
「でも・・・真さん、結婚したじゃないですか。」
少し尖ったような声を向けてきたのは気の所為ではないだろう。
「前にも話したけど、相手に気持ちがあったわけじゃない。」
「俺が、どんな気持ちで・・・」
泣きそうな声で抗議してきた彼の言葉に胸が苦しくなる。
「悪かった・・・」
そのまま何も言わなくなった理央を覗き見ようとすると、そのままカウンターに額を付けて腕ごと丸まって伏せてしまった。
真はかける言葉を探したが、目の前で小さく肩を震わせ始めた理央を見て、どうしていいかわからなくなる。けれどどうしても心を繋げたくて、彼の髪に触れる。理央はビクリと肩を揺らしたが、嫌がるでもなくされるがままだった。
「理央・・・好き、なんだ。」
「ッ・・・」
「好きだよ・・・」
「・・・る、い。」
「え・・・?」
嗚咽の混じった掠れた声が、店内のサウンドに流されてしまう。
「ずるい・・・。真さんは、ずるい。」
「ああ、そうだな・・・」
「でも・・・」
小さな声を何とか拾おうと俯せたままの理央の顔に近付けるだけ近寄る。
「でも、それでも・・・真さんが、好き・・・」
「ああ。」
「真さんだけ知ってたなんて、ずるい・・・」
「・・・。」
一瞬言おうかどうか迷ったものの、後で事の顛末を知って黙っていたことを責められても困ると思い、白状する。
「堂嶋も知ってるけどな・・・」
「・・・えっ!?」
弱々しく伏せていた身を急に起こして、涙目のままこちらを驚いたように見る。
「なんでッ・・・」
「先に気付いたのは、堂嶋なんだよ。」
「ウソ・・・でしょ?」
「いや、ホント。」
理央が全身から力が抜けたように盛大な溜息をつく。今まで二人の間で張り詰めていた空気が一気に緩む。そして、ようやくまともに理央がこちらへ顔を向けた。
一つスコールを見送って、湿り気が増した外気に晒される。身体がようやく常夏の暑さに慣れ始めたと思っていたのに、真が日本へ一時帰国をする日は近づいていた。
パッケージの最終案が上がってきたと外出先で連絡を受け、軽やかな足取りで社を目指す。電話の向こう側から聞こえてきた弾む声に頬を緩め、ここで手抜かりは許されないと気を引き締め直した。
「ただいま」
「おかえりなさい、真さん。」
「出来たんだってな。」
はい、と嬉しそうな声が返ってきて、そのまま理央から最終案の試し刷りを受け取る。サッと目を通したところでラーマンをデスクに読んだ。
「原稿を見ながら、オットと読み合わせをしてくれ。」
「了解。綺麗な文様だよね、これ。」
「アレンジの仕方が面白いな。日本人が作るとこうはならないだろう、ってところがまたいいね。」
日本の伝統文様をイラストレーターのアブバカールが彼なりの視点で解釈し、パッケージのデザインにしてくれていた。京都の小物屋でよく見かけてるような文様なのに、構成の仕方にイスラム文化を感じさせる要素もあって、面白い融合だ。
ラーマンとオットが声に出して材料や注意書に間違えがないか読み合わせをしていく。目視だけだと見逃すこともある。新人の頃、校正の仕方を勝田に教わった時、一番確実な方法として叩き込まれたことだ。最初は面倒だと思いつつも、声に出して順繰りに辿れば絶対に漏れがないことを実感し、それ以降同じように自分も指導している。
間違いがあると、せっかくの苦労が水の泡になる。誰にとってもマイナスにしかならない。だから人任せにはせず、必ず自分も同じようにチェックをする。
「色ムラもないですね。」
「そうだな。まぁ後は何千枚、何万枚って刷ってみてどうか、ってとこだな。ただ今回に関しては細かいものがあるわけじゃないから、影響は少ないだろうね。」
印刷会社から渡された試し刷りは全部で十枚。二種の紙で試しているので、実質五枚ずつだ。向こうも良いものを厳選して渡してきているはずだから、最低ラインは工場に入っている機械と作業者の習熟度から想像するしかない。しかしこの印刷会社と取引が始まって以降、何度か担当の作業員を変えてもらっていて、納得のいく人間に任せているらしい。それに関しては堂嶋の目を信用している。煩い客だと思われているだろうが、こっちも仕事なので譲れない。
「真さん、紙はどうします? うちで指定していたやつよりも、勧めてもらった紙の方がいい気がします。」
「色味もそうだけど・・・長期ストックされることを考えると、箱の変色とかあるからね。そういう物に強い方が良い、っていうのは湿度が高いマレーシアならでは、って感じがするな。」
「日本も高温多湿だけど、マレーシアは一年中ですからね。日本以上にそこが難しいです。ただ、気にする人が多いか、っていうと、そうでもないけど・・・」
コストの面で考えれば最初に指定した紙の方が安い。微々たる差だが、塵も積もれば、ということだ。しかしアブバカールが勧めてくれた紙の方が、こちらの気候で保管するのに適している。彼はジャパン・クオリティという面で気に掛けてくれているのだ。
「予算をオーバーするわけではないからな。安かろう悪かろうで認識されても困るし・・・理央、紙に関してはこれに代わるものの調達は難しいんだよな?」
「はい。日本にも似たような紙でもっとクオリティの高いものがありますけど、仕入れようとするとコストもかかりますし。インクのノリ具合とか試すとなると、あんまり現実的じゃない気がします。」
「まぁ、現地調達が基本だよな・・・。わかった。これでいこう。校了だな。」
真の声にラーマンやオットもデスクに寄って来る。
「小野村さん、お疲れ様。」
「君の仕事のやり方はなかなかハードだけど、楽しかったよ。」
すでに終わったかのような二人の口振りに若干苦笑していると、理央が顔を覗き込んで尋ねてくる。
「ようやく、スタートライン?」
「そのはずだけどな・・・」
やれやれと溜息をつくと、理央が面白いものを見るように笑った。
「理央、校了の連絡入れてくれ。」
「はい。」
人懐こい笑顔を真に見せて、理央が軽やかな足取りで自分のデスクに戻っていく。そして早速電話越しに朗らかな会話をし始めた彼の後ろ姿を見て、この一ヶ月抱えていた緊張感を真はようやく解いた。
二月に入り、発売日に向けて、各方面の調整に奔走する。目標とする発売日は五月一日。試し刷りをして色味を見たり、実際食品をセットする機械での試運転をしたりと、やることは山のようにある。デザインで四苦八苦していられるのも、あと一週間が限度だろう。
上がってきたデザインの良さを損なわないように、盛り込まなければいけない文言をパズルのように配置していく。最初に盛り込む文言が決まっていれば難しくないのだが、作っていく過程で、どうしても増減が出てくるものなので、その帳尻合わせに時間がかかってしまう。しかしここが双方の踏ん張りどころなので、手抜かりは許されない。
「フォントのサイズは規定範囲内じゃないといけないから、これ以上ここは小さく出来ませんよね?」
「そうだな。後は言い回しでどれだけ削って収まり良くするか、だな。日本のように回りくどい表記じゃなくて良い気がするんだが、どう思う?」
主にラーマンとオットに向かって真は問い、それに応えるようにラーマンが先に口を開いた。
「バカールも言ってたんだけど、もっと端的な言い方で良い気がする。文章が長くて丁寧過ぎても、誰も読まないよ。」
アブバカールはラーマンと同郷で意気投合したらしく、すでに良い意味で砕けた関係だ。
「俺もそれには同意見。」
オットも頷いてくるので、日本から持参した注意書きの文言が、こちらの風土には合っていないということだろう。この段階で仕事を増やすのは心苦しいが、問題点が明確な以上、修正を躊躇するべきではない。
「ラーマンとオットで手分けして文言を作って貰えるか? 内容さえ損なわなければ、言い回しは任せる。英訳したものを後で寄越してくれ。」
「了解。」
ラーマンとオットは早速、文言作成に取り掛かるべくそれぞれのデスクに散っていく。
「理央、パッケージ素材の方はどうだ?」
「堂嶋さんにも相談して、日本と同じ仕入れ先にしました。やっぱり安全性を考えると、全部を冒険するのは危険過ぎるので。コストに関しては、中東情勢のこともあるから、先が読めないのが怖いんですけど。ただ、それに関しては、正直どこと組んでもあまり差がないので。堂嶋さんに頼んで、担当者に来てもらう手筈は整ってます。」
「わかった。それなら俺が出て行く必要はないな?」
「はい、大丈夫です。あの・・・」
何かを言おうとして言い淀んだ理央に、目で何かと問う。少し俯いて、意を決して彼が話し始めた言葉に少なからず面食らった。酒の席で勢いに任せて言ったことを蒸し返してきたからだ。
「このプロジェクトに一度区切りが付いたら、言いたい事があるって真さんが言うから、ずっと気になっちゃって・・・。もしかして、異動の話がなくなったのかな、とか。プロジェクトを軌道に乗せたら、すぐ日本に引き上げちゃうのかな、とか・・・。」
日本へ帰ってほしくないと全身で訴えてくる姿に、つい愛おしくなって彼の頭に手を出しかけて、咄嗟に肩を叩くにとどめた。
「いや、違うよ。むしろ俺、数年はこっちだから。全くその話とは関係ない。」
勝田の言い方からしても当分はマレーシアだと踏んでいる。安心させるためにそう言ったのに、理央はかえって青褪めた。
「もしかして・・・結婚する、とか?」
小声になったのは周りを配慮したからだろうか。しかしすぐ近くにいるラーマンやオットは日本語がほとんどわからないので、あまり関係ない。
押し黙った真に場違いな問いであることに気付いたのか、焦ってまたもや小声で謝ってきた。
「すみません・・・」
理央の声が少し震えて聞こえたのは気のせいではないだろう。明らかに動揺している理央を見て、自分も引きずられるように心が揺れそうになる。仕事中にどんどん脱線して険しい顔になっていく理央に、真は文字通り頭を抱えそうになった。
「どっちもハズレだ。そういう話ではないから。とにかく、それは保留。ほら、仕事に戻れ。」
あまり感情的にさせないよう、冷静に諭すような口調で告げ、自分のデスクへ戻らせる。理央の表情は相変わらず晴れていなかったが、見て見ぬ振りをして、真は無理やり書類と向き合った。
あんな顔をして、気持ちを隠しているつもりであることに驚く。そして堂嶋に指摘されるまで気付かなかった自分にも、また驚く。明らかに傷付いた顔の理央に、彼の思いの丈を見せつけられた気がした。
かつて自分が結婚の報告をした時も、一人遠くであんな顔をしていたのだろうかと思うと、堪らない気持ちになってしまう。つい職場であることを忘れて、一から全てを明かしたくなってしまった。
ただの決意表明のつもりが思わぬ波紋を呼んでしまい、真は言ったことを激しく後悔した。
不快な話し合いの席は疲労だけが溜まる。つけ入る隙を与えたくはなかったので、淡々と相手に依頼の取り下げを告げた。
こちらがそう出てくるとは思っていなかったのか、担当者も上長も慌て出した。要求されたデザインに対してスケジュールがタイトなので料金は以前より割増だが、請け負うことはできると言ってきたのだ。結果、読み通りの展開に真は興醒めし、他にあてがある旨を伝えて断り続けた。
最後には逆上して契約違反だと言ってきたが、交わしてきた契約書を提示して、冷静に受けて立った。
相手の足下を見て仕事をすれば、いつか痛い目は見る。コストに見合わない破格の数字など提示してはいけないのだ。安価を要求されても譲れないラインを超えてはいけない。自分たちにしかない武器を手に、堅実に実績を積み上げていく。それが仕事をするということだと真は思っている。
理詰めで諭していくのは、あまり気分がいいものではない。向こうの出してきた条件の中で、こちらも付き合いをしてきたのだ。しかしギリギリのところで保たれてきた均衡がここへ来て崩れた。ただそれだけのことだ。
競争が厳しい中で安価を武器にしたくなるのはわからないではない。しかし価格勝負は、あっという間に底が見えて立ち行かなくなる。安易な解決策は身を滅ぼすのだ。
「申し訳ありませんが、社の方針転換で別のデザイン事務所との契約を考えています。こちらも依頼をして一度断られている身ですので、対応を考えた次第です。快く引き受けて下さらないところとは、今後も気持ち良く仕事ができるとは思いませんので。」
真は話をクローズする方向に持っていく。目でこれ以上何かあるかと問えば、相手は項垂れた。こうやって付き合いを切るのは双方にとって嫌な話だ。しかしビジネスである以上、馴れ合いで仕事はできない。
二人を出口に案内し頭を下げて見送る。後味は悪くなってしまったが、これまで世話になったのは事実だ。契約をこれから先しないことになったとしても、人として無礼な態度は取りたくない。彼らが振り向いて手を挙げた。真はそれにもう一度応えるように頭を下げた。
デスクに戻るとメンバーが複雑そうな視線を寄越してきたので、小さく首を振った。これで商品パッケージに関しては振り出しに戻ったわけだが、さほど陰鬱な雰囲気ではなかった。
「真さん。例のイラストレーターのアブバカールさんが会って下さるそうです。すぐにでも、ということなので、早速夕方に会ってきます。」
「任せていい?」
「はい。」
少し気負っているようにも見えたが、何でもかんでも手を出していたら、彼の成長を妨げてしまう。一緒に行く、という言葉を呑み込んで、真は理央に任せることにした。
日本にいる勝田に進捗状況を報告して電話を切る。結局二十分ほど彼に捕まり、話のほとんどが年度末の数字合わせだった。
真は日本を出立する前に整理してきたのだが、一か月程度で数字の作れる仕事に心当たりはないかと突かれていた。確約はできないが、と前置きをして、日本から持ち出した名刺ファイルを片手に、片っ端から勝田にメモを取らせた。
「真さん、今、お時間大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。何かあったか?」
「はい。ちょっと困った事になってて・・・」
真が電話を置くのを待ち構えていたように理央がデスクにやってくる。申し訳なさそうな気配を全身で発しているところから見て、良い話ではないだろう。構えて聞くと、案の定良い話ではなかった。
「スケジュールがタイトで請け負えない、とのことなんです。ただ実際はいつもこの程度の納期なので、単に向こうが今オーバーフロー気味なだけなんだと思います。」
簡単に言えば、商品のパッケージをお願いしていた会社に仕事を断られたのだ。しかも真がこちらに来てから動き出した案件ではなく、以前からラフスケッチなどはお願いしていて仕事そのものは動いていた。もちろんそれに対する対価は支払われている。本格始動の段階になって急に断られたのだ。
「わかった。資料を回してくれ。依頼した段階から説明してくれるか?」
「はい。」
「この際、俺も担当者に会っておきたいからいい機会だ。」
理央が心底すまなそうな顔を向けてくる。しかし問題があった時こそ冷静に対処して舵取りをするのが真の仕事だ。
「ほら、そんな顔してないで、早く持ってこい。」
元気なく頷いて、席に戻っていく背中を見送る。どうしたものかと、真は頭を捻った。
理央から一通り話を聞いて思うところもあり、企画書を片手に受話器を取った。理央と直接やり取りをしていた担当者と話をすれば、拍子抜けするくらいあっさりと上長を連れて説明しに来ると言ってきた。
その時点で何かがおかしいと感じた真は、このデザイン事務所と今までやってきた仕事内容の資料を読み漁り、最終的には契約書と明細書の突き合わせをして首を捻った。そして堂嶋にも意見を求めて出した結論は、今までが異様に安い、ということだ。
既に滞りなく終わっている仕事は五件。今までトラブルは何もない。仕事は今まできちんとこなしてきてくれていて、一見問題がないように見える。しかし、それがある意味問題のように思えた。すでに動き始めている企画の突然放棄。
明細書を見ると、作業代が細分化されていた。企画を練る段階でのラフスケッチ代、データ作成代、印刷所へデータを入稿するための手数料に変換料・・・。
企画が頓挫するケースがあることを考えると、細分化されているのは助かる。コストが最小限で済むからだ。しかし親切なようで、ここに落とし穴がある。
前回までは依頼から納期まで短期間だったので、納品までの全工程を一括契約していた。しかし今回、企画自体は早く動いていたものの、認証が下りるまで時間を要していた商品だったので、一旦案を寝かせていたのだ。契約に関してもそこで途切れている。
「今まで取れなかった分を、取ろうってことだろうな・・・」
成長著しいこの国で、人経費は昔ほど安くはない。堂嶋に意見を求めたところ、やはりそういう見解だった。
信頼を得るまでは安い作成代で仕事をし、金を取れると踏んだ段階で作成料を高く取る。このデザインだと時間がかかるとか、高度なスキルが必要だとか、言い方はいくらでもあるだろう。しかも厄介なことにこの段階で高い費用を提示するのは、今回の場合、全く契約違反ではない。
真が考えるに、高額な費用を吹っかけられることはないだろうと踏んでいる。恐らくこちらが出せるギリギリのラインを提示してくる。
しかし真は、万が一自分の読み通りの展開が待っていた場合、契約する気はなかった。信頼関係を築くに相応しい相手ではないと思うからだ。
こういうケースはここに限ったことではない。日本でも起こり得ることだ。新しい取引先を探すのは骨が折れるが、理央にとっては良い勉強となるだろう。
部下以上の想い入れがあっても、この立場で対峙する時、彼を甘やかすつもりは一切ない。それは男としてのプライドでもある。中途半端な態度を取って、後輩としての彼を一社会人としてダメにしたくない。
「理央、ちょっと来い。」
緊張の走った顔を向けてきた彼に盛大な溜息を零したくなったが、次の瞬間には心を律した。
人目で厳しく言っても折れるような奴ではないが、内容が内容だけに、二人になれる別室を選んだ。
お人好しなのは全く悪くない。けれどビジネスの世界では、人の足下を見ている人間が山のようにいることを知らなければならない。淡々と理央の見えていない現実を話せば、少し気落ちしたようではあったが意外な言葉が返ってきた。
「俺って今まで、人に恵まれてたんですね。だってそういう事を考えなくても、上手くやってこれちゃったんですから。」
「・・・そうかもな。」
けれど運が良かったのは、その運を引き寄せられるだけの理央の人柄があったからだろう、と真は内心思う。感情的にならず、冷静に事実を受け止めていることに、少し安堵もした。
「まだそうと決まっているわけじゃないけどな。ただ、俺の経験則ではその可能性が高い。それで、だ。」
「他のところ、ってことですよね?」
「そうだ。」
理央に頷いて、彼の前に一枚名刺と、あるホームページの画面をプリントアウトした紙を差し出す。彼とこの部屋へ来る前に用意しておいたものだ。
「仕事を受けてくれるかどうかは相性もあるし確証があるわけじゃないが、手持ちのカードは俺としてはこれだけだ。候補の一つにしてくれ。今週中に目処を付けてほしい。出来るな?」
「はい。ありがとうございます。」
差し出された物を見て少し驚いた顔をした彼だったが、すぐに受け取って真に頭を下げた。
真が渡したのは、堂嶋が連れて行ってくれたクラブで出会った常連客の名刺。そして彼から教えてもらったイラストレーターの情報だった。
現地のイラストレーターが感じる日本食をデザインとして起こしてくれれば、日本とはまた一味違ったデザインが生まれるだろうし、彼らの感性に合うものが提案できるのではないかと思ったのだ。気をてらった物を作る気はない。日常の中に当たり前に存在する一品を作っていきたい。そのための一つの挑戦でもあった。
新たな付き合いのできるデザイン事務所探しは理央に任せ、真は来客の知らせに応えて席を立った。
ラーマンから事前に報告を受けていた通り、滞りなく試食会を執り行うことができて、一同ひとまず安堵の息をついた。
「アンケート、口頭にして正解でしたね。」
日本の試食会ではよく紙に書かせて回答させることが多いが、あれは日本特有と言っていい。はっきり自分の意見を述べることに抵抗のないマレーシアの人々には、直接聞けばきちんと反応が返ってくる。彼らは思った以上に忌憚のない意見を聞かせてくれた。日本人相手にこうはいかない。
「皆さん考える事、人それぞれで面白い意見がたくさんありますね。久々に凄く楽しかったです。」
「喜んでて大丈夫か? 集計取るのは、おまえだぞ。」
「わかってますよ。だってラーマンとオットの頑張りを無駄にしたくありませんから。これ、本社に投げる用にも纏めておきますか?」
「よろしく頼む。」
「はい。」
意気揚々と紙の束を捲り始めた理央に、真はある事を思い出して待ったをかける。
「理央、やっぱり日本語に訳すのは俺がやる。」
「え・・・? 俺、やりますよ?」
そう言った彼はかつて、英文で書かれた報告書を豊かな感情表現でもって、赤面ものの日本語に訳してくれた強者だ。あの癖だけはついにシンガポール赴任までに直してやることができなかった。そして、堂嶋と時々連絡を取り合う中でも、たびたび彼の口から話題として上がっていたので、直っていない可能性が高い。
「いや、本社の勝田さんに用事もあるし、ついでだから、それは俺がやる。英文で纏めたやつ、そのまま俺に投げろ。」
「・・・? わかりました。」
今回はよりにもよって人の意見を聞き出したアンケートだ。オーバーな文言が並んでしまうことが容易に想像できて、任せたら頭を抱える事態になることは有り得る。今は時間が惜しい。真は、理央の日本語教育をひとまず後回しにすることにした。
「企画が終わったばかりで悪いけど・・・ラーマン、先週から着手してもらってるスーパーマーケットの方の調査についてそろそろ中間報告が欲しい。」
「小野村さん、良い倉庫があったから、纏めておいたんだ。明日の朝にはデスクに置いておくよ。」
「そうか。じゃあ、よろしく頼むよ。あとオット、学校の方はどうだ?」
苦笑いが返ってきたので、こちらはどうも苦戦しているようだ。
「面倒じゃない事が一番だってさ。調味料を売り込むことを最初は考えてたんだけど、そこは日本と違うからね。ある程度出来合いのものの方が押しやすいかもしれないから、企画を練り直してるところなんだ。」
「わかった。新しい企画書を作ったら回してくれ。日本の給食のノウハウに関しても、日本サイドで資料を纏めてもらってるところだから、明後日の朝には渡すよ。」
「小野村さん、仕事いっぱいで、よく頭ごちゃまぜにならないね。」
オットが心底不思議そうに言ってくるものだから、つい笑ってしまう。理央も隣りでくすりと笑った。
「真さんは同時並行でいっぱい仕事やってても大丈夫な人なんですよ。こんがらがらないみたい。いつの間にか片付いてるし。」
「魔法だね。」
「上司が優秀だと、部下は楽ですよねぇ。」
「持ち上げても何も出ないぞ、二人とも。」
二人の言い様に若干呆れて眉を上げる。
メンバーの動向に目を光らせて調整していく能力があってこその管理職だ。そこに関しては、自分の出来不出来を冷静に評価できていると思っている。
のめり込んで一つの事をやり出すと、周りを置き去りにしがちな性分なので、必ずしもまとめ役が向いているわけではない。しかしそこは経験値で補って、なんとか均衡を保って堪えている、というのが現状だ。
「今日は休日なのに、ご苦労だったな。振替の休みはなるべく希望通りの日に取ってもらおうと思うから、決まったら早めに言ってくれ。可能な限り、調整する。」
オットとラーマンは残り少ない日曜の時間を家族と過ごすため、早々に切り上げて帰宅していった。真は社に戻って律儀に定時まで仕事をする心づもりで荷物を纏め始める。それを察した理央が、真の顔を覗き込んで訊ねてくる。
「真さんは帰らないんですか?」
「まぁ、帰っても用事があるわけでもないし、夕方まで仕事して、飯食って帰るよ。」
「じゃあ、俺もそうしよっと。ご飯お供してもいいですか?」
一人でいても碌なことは考えない。目の前の現実を見た方が何事も確かだろう。
来る気満々の嬉しそうな眼差しに頷き返して、二人でオフィスまでの道のりを歩いた。
理央と二人で帰社すると、ラーマンが待ち構えていた。早速話を聞くと、モスクの隣にある事務所で試食会が実現しそうだと報告してくれた。ハラル認証が下りているものであれば問題ないとのことで、日曜の昼頃の礼拝に合わせて事務所を開放してくれるらしい。
こういう案件は今まで築いてきた人脈が物を言う。現地採用の意義は人経費だけの問題ではないのだ。ラーマンの手腕に感謝し、宗教施設の隣りという場所柄の難しさを考え、この案件に関する現場の指揮はラーマンに一任することにした。
彼の地元を巻き込んでの催し物に彼も勇んでくれて、こちらとしてもホッとする。信頼して任せるのも真の仕事だ。真からしてみれば土地の理がない分心配は付き物だが、何度か個人的な催し物で付き合いがあるという彼を全面的に頼ることにした。
「当日でもその前でも、俺が顔を出すのは問題ない?」
「もちろん。遠慮しなくて大丈夫。」
「きちんと会って、向こうの担当者にお礼を言いたい。完全に向こうの善意で成り立ってるからな。」
「当日で良いと思うよ。彼、普段は観光客のガイドで忙しいんだよ。」
「そうか。では当日伺う旨を伝えておいてくれるか?」
ラーマンが満足気に頷いて寄越す。彼をデスクに戻らせ、自分のデスクのノートパソコンに目をやると、付箋がたくさん貼り付いていた。心の中でこっそり溜息をつき、各方面への電話に時間を費やし始めた。
急ぎのものを先に捌き切った後、最後に緊急性を要していないと思われる本社からの電話に折り返す。相手はこちらに来る前に所属していた部署の人間だ。正確に言うと、真はまだ本社サイドの人間で、体裁としてはマレーシア支社に長期出張で来ていることになっている。
『小野村、久しいね。』
「まだ二週間も経ってないですけどね。」
『冷たいこと言うなよ。まぁ、あれだ。決まりきってる異動の話ね。』
「もうすでに来てますからね。」
『だよね。』
向こうの電話口にいるのは、営業部長である勝田。彼の戯言に付き合いつつ、あまり長くなると面倒だなと天井を仰いだ。
『そっちはどう? 慣れた?』
「シンガポールとはお国柄も違ってテンポがまだちょっと、って感じですけど。でも、成るように成りますよ。」
『相変わらずクールだねぇ。まぁ、プロジェクトもその調子でよろしく頼むよ。来年度からはがっつり数字つくから。』
「わかってます。俺、そのためにこっち呼ばれたようなものですからね。」
元々は真抜きのメンバーで動くはずだった。堂嶋が真のポジションにつく予定だったのだが、堂嶋がマレーシア支社で進めていた別のプロジェクトが当初の計画より軌道に乗るのが早かった。堂嶋が二つの掛け持ちするのが現実的ではなくなったため、当初日本の本社で後方支援に回るはずだった真が呼ばれることとなったのだ。
候補は真の他にも二人いた。しかし海外勤務の経験値と堂嶋との繋がりを考慮され、最終的には真が適任と判断された。
『数字に煩い案件は、小野村を使うのが手堅いからね。』
「そういう事、本人に言います?」
『数字作れるまで帰って来なくていいから。』
「数字作れても、当分こっちにいますよ。」
自分でサラリと言い返したわりに、心は騒めいた。まだ帰りたくない、と強く思ってしまったからだ。理央の事が頭にチラついたのは言うまでもない。
『いいね、やる気あって。あ、もしかして、そっちの方が楽?』
楽しそうに聞いてくる上司に、わざと聞こえるように溜息をつく。
「勝田さんこそ、こんなダラダラ電話してて暇なんじゃないですか?」
『言うねぇ。まぁ、仰る通り。承認しなきゃいけない案件があり過ぎて、どれから手つけるか迷っててね。呆然としちゃって、かえって暇なんだよね。』
「それ、周りから苦情来るパターンですから。早く仕事してください。で、本題は?」
『相変わらず、せっかちだねぇ。まぁ、いいか。あのね、当分はその体制でやってもらう、って話。どんなに繁盛しようと向こう二年は増員なしだから。』
「まぁ、予想通りですね。」
今年、本社の人事は新卒採用の際に、英語の話せる要員を十分確保できなかった。去年の秋の時点でわかっていたことではあるが、教育には時間がかかる。
『小野村がいるからマレーシアは大丈夫、ってことでね、後回し。』
マレーシア支社にいる本社サイドの人員はそのほとんどが中堅だ。勝田の言うことを額面通り受け取るほど馬鹿正直ではないが、あながち外れてもいないのだ。経験者で何とか最初の数年は持ち堪えろということだ。プレッシャーではあるが、任された以上結果は出したい。
「頑張らせていただきますよ。次に会った時、お互い旨い酒が飲めるようにしたいですから。」
『期待してるよ、小野村。そういえば、おまえの雛には会った?』
「はい?」
雛と言われてすぐに顔は思い浮かんだが、目の前に本人がいるので、わざととぼけて返す。
『ほら、島津。俺もそっちに出して以来会ってないからね。どう、元気?』
「元気ですよ。」
『今も成長期真っ只中だろ? 頑張ってもらわないとねぇ・・・あ、まずい。システムの奴等とこの後打ち合わせなんだ。留松がなんか目の前で怖い顔してるからさ、切るね。』
喋りたいだけ喋り倒して一方的に電話を切った勝田に、もはや溜息すら出ない。留松はシステム部の課長だ。真が出国する直前、見積りのシステムの件で揉めていたから、きっとその事だろう。留松も勝田相手にご愁傷様というところだ。
勝田は営業としてはかなりやり手だ。部長になった今でも、そのノウハウを徹底的に部下へ叩き込んでいる。なかなかの曲者だが、懐は広い。そしてよく人を観察している。味方として営業に出る時は心強いが、他の部署の人間は渡り合うのが難しい相手だろう。その手腕ですぐに丸め込まれ、仕事をさせられるからだ。
心の中で留松に手を合わせ、チラリと視界の隅に理央を入れる。誰も彼もが明確な意図を持って理央の話題を自分に吹き込んでくるわけではない。けれど話題に出されれば動揺するぐらいには参っていた。
仕事はスタートラインに立ったばかりだ。区切りがつくまで耐え切れるか、真は不安に思いながら理央から目を逸らした。
ついて行くからといって、上が出しゃばれば良いというものではない。定期的な搬入を実現するための運搬方法や費用の話など現場レベルの話は理央に任せた。
時々言葉を補う程度で話はスムーズに進む。きちんと順序立てて話せるようになったのだな、と関心した。当たり前といえば当たり前だ。理央に関する営業スキルの記憶は、彼の入社一年目で止まっているのだから。成長を好ましく思いながら、相手方の上長も気分良く話を聞いているように見え安心する。
当初は病院食としての採用に難色を示された。食生活の文化の違いがある以上、馴染まないのではないか、という話が出たからだ。しかし一方で現場からはスパイス色の強い今の食生活だと、回復途中にある患者の身体には刺激が強過ぎるという声も上がった。
そこで試食をしてもらうことにして、日本食の当たりの優しい味が現場の担当者たちから高評価を受けた。結果、採用を前提に話を聞いてもらえることになったのだ。
「ネックなのは病院内で保管できるスペースがほとんどないという事だったかと思いますが・・・」
こちらの話には経営者の方が大きく頷いた。
「当社では市内まで車で一時間ほどのところに倉庫を確保してあるんです。市内の各施設への供給のために運搬も込みで契約をしています。病院の方には運搬費用も込みで、先日提示させていただいた価格でご提供できます。」
それを聞いて経営者は満足気に頷いてくれた。
「その数字なら現実的だ。こちらも調整できる範囲内だね。」
理央が視線を投げてきたので、小さく頷き返す。今日の目標としては契約の段階に足を踏み入れてもらうこと。具体的な納入時期が見えてくればそれも現実的になる。
「我が社としては六月から全稼働の予定で考えております。是非・・・」
「五月の中旬からはどうだろう?」
「五月ですか? 五月でも勿論対応させていただきます。」
「じゃあ、決まりかな。というのも、一つ納入業者が六月から撤退してしまうんだ。五月半ばから試験的に始めて様子を見て、六月から早速定期的に一年始めたい。」
まずは一年。その仕事ぶりで後の契約を延長できるかが決まる。しかし半年、最悪だと一ヶ月という単位も覚悟していたので、スタートとしては良い感触だ。今回は運も味方についてくれたようだ。
理央が一式、契約前段階の書類を渡す。どれだけ双方が共通認識を持って取引に臨めるかがトラブル回避の大前提だ。人が動く以上、トラブルはつきもの。あとはどれだけ入念な準備をしてトラブルの根を摘んでおけるか、ということだろう。
理央が一つひとつ順を追って打ち合わせ通り説明をし始める。着々と取引を進めていく後輩を頼もしく思いながら、説明に漏れがないよう彼の言葉に耳を傾けた。
笑顔で見送ってくれた担当者に重ねて頭を下げ、車に乗り込む。契約の山場は越えた。正式書類を交わす日取りも決まり、二人で安堵して病院の事務所を後にした。
古めかしいエンジン音を鳴らしながら、早速市内の渋滞に巻き込まれる。クアラルンプール市内の渋滞は忍耐を試される。目の前に広がる長い車列を見た後、真は溜息をついた。
落とした目線の先に埃の塊が見える。ギョッとして車内を見渡せば、長らく掃除をした気配がなかった。
「メンテナンスしてるのか、これ・・・。」
「さぁ・・・。」
「・・・。後で総務に聞いておく。」
「あんまり細かい事言うと、嫌われますよ?」
「日常的に使う物こそ、ちゃんと手入れしないと。」
「真さん、几帳面ですもんね。なんか昔を思い出します。あの頃、机が向かい合わせの堂嶋さんと対照的で面白かった。真さんの机、無駄な物が一切なかったけど、堂嶋さんの机はいつも雪崩が起きてましたもんね。」
あの頃と変わっていないのは理央も同じ。その手の事に神経質な真を、嫌がるでもなく尊敬するでもなく、ただ外野に立って愉快そうに笑っているだけだ。
この温度感を心地良いと思う一方で、進む先があるのなら、とふと考えてしまう。打ち消そうとしていた矢先に、理央と目が合う。ジッと見ていたから視線を感じたのだろう。
「真さん?」
「いや・・・何でもないよ。運転任せきりで悪いなと思ってさ。」
内心慌てたことを悟られぬよう、言い繕う。気持ちを隠すのが下手なら、いっそ開き直れるかもしれないのに、と馬鹿なことを思った。
堂嶋が気付いたというなら、自分も目を凝らせば真実を見つけ出すことができるのだろうか。
住むフロアが違うので、コンドミニアムのエレベーター内で堂嶋に別れを告げた後も、一人悶々と考え続けた。
堂嶋の言葉を鵜呑みにしたい自分と、勘違いだと否定する自分の板挟みになり、その夜は心底疲れた。正直この手の疲労は有難くない。悩んだところで答えが見つかるとも限らず、疲弊するだけ時間の無駄だと囁く自分もいる。
結局真は抱えるプロジェクトの最初の区切りがくる春まで、このことを考えるのをやめることにした。仕事を中途半端にすることだけはプライドが許せなかったからだ。
毎日顔を合わせる理央のことを考えずに過ごすのは難しい。けれどプライベートな感情に振り回されて仕事が手に付かないほど未熟ではないと思っている。
物理的に距離を置くことで逃げた過去はあるものの、今となっては、理央を好きな自分と彼の上司である自分を分けて考えられるくらいには冷静だ。恋だけに振り回されるほど、自分はもう若くはない。
心の中に自然と描かれてしまう理央の笑顔を、無理に掻き消す必要はない。心の隅に置いて、熟考できるまで寝かせておくだけだ。そうやって心の整理を一晩のうちにして、翌日真は何食わぬ顔で出社した。
堂嶋にはひとまず保留の旨を伝えて先手を打った。その手のちょっかいを出してくるかはわからないが、何度も突かれれば、さすがに自分の心が折れるだろうと思ったからだ。
やる事に優先順位を付けただけ。逃げるわけではない、と言いつつ、やはり逃げだろう。ただ今は向き合う覚悟とそれに費やす時間がない。自分の気持ちを蔑ろにはしたくないからこそ、時期を見ることにしたのは嘘ではない。
ホワイトボードに自分のスケジュールを黙々と書き込んでいく。真は可能な限り一日のスケジュールを事前に晒しておく。そして各々のメンバーにもそれを求めている。その方がメンバー間に時間のロスがなくなるからだ。また、自分の行動や時間の使い方に責任を持てるようになる。一人で仕事をするのではない、と常に自覚をして仕事をしてもらいたいという意図もあった。
一通り書き終えると理央が真のスケジュールを覗き込んできて午後の部分を指す。
「午後一で例の病院の担当者と会うことになってるんですけど・・・同行してもらえませんか?」
「もしかして、もう一押し?」
「はい。現場の担当者とはほとんど話がついてて、後は経営者レベルの話なんです。」
本来はそこで手腕を発揮してこいと言いたいところだが、なにぶん真もマレーシアでの場数が少ない。早くここの空気感を知りたいという気持ちが勝った。
「わかった。行く二時間前までにこれまでの経緯を纏めたもの、寄越して。」
真がそう言い終わらないうちに、理央は企画書を一部と別紙を一枚渡して寄越した。用意周到なその行動に苦笑する。
「最初からそのつもりだったな、おまえ。」
「いや、駄目もとでしたよ? 事前に準備しておかないと、絶対言われるから。」
「当たり前だ。おまえ、自分が社会人何年目だと思ってる。」
額にデコピンをかまして、てっきり顔を顰めて痛がるかと思いきや、サッと頬を染めた理央に一瞬面食らう。騒めきそうになる心を無理やり抑え込んで、見て見ぬフリをした。
「じゃあ、見ておくから。」
「はい・・・。」
何事もなかったように企画書で理央の肩をポンと軽く叩いて自分のデスクに戻る。今、理央の顔を見返す勇気はない。まだ自分には事実だと受け止める心の余裕はなかった。
こんなわかりやすい反応を示してくる彼の気持ちに、何故今まで盲目でいられたんだろう。堂嶋が彼をわかりやすいと評していたのも、今なら納得せざるを得ない。
真は頭を無理矢理仕事へと切り替えて、理央の反応を頭の隅へ追いやった。
別のプロジェクトで動いている堂嶋から夕飯の誘いを受け、二人で定時に社を出る。理央が営業をかけている時間帯を狙って耳打ちしてきた堂嶋に、何かあるなと得心した真は、連れて来られたバーに首を傾げる。見渡すと仕事帰りの外国人サラリーマンが多い。
「おい、堂嶋。ここに何かあるのか?」
「ちょっとおまえに会わせたい連中がいてさ。ほれ、あのグループ。」
堂嶋が声を掛けたのは日本人が集っているテーブルだった。
「業界は色々なんだが、全員日系企業の駐在員だ。ま、連れ出したのはこっちがメイン。」
「メイン、って・・・。違う話もあるのか?」
「それは後で。一時間後、そっちのテーブルに行くから。ちょっと俺は別のテーブル行ってくるわ。」
「は?」
「まぁ、いいから、いいから。じゃあな。」
勝手に連れてきて、勝手に去っていく同期の背中を見送って、せっかくの機会を無駄にしまいとテーブルの面々に頭を下げる。するとすでに酒が入った面々は和やかで、気兼ねなく話せる雰囲気があった。しかも堂嶋がすでに真の前情報を渡していたらしく、難なく場に馴染むことができた。
「世界でも日本食は注目されてますからね。やり甲斐あるでしょ?」
「イスラム圏は正直未知の世界ですから不安もありますけどね。知識だけじゃ、どうにもならない文化の壁もあるだろうし。まだそこにぶち当たってないから、全てが恐る恐るって感じですよ。」
「マレーシアは寛容な国です。暮らしてて実感することも多いですけど。おおらか、というか。」
それには同意見なので、真も頷く。
「それに伝統と最先端が上手く融合しそうな国でもあるから、面白くて。今若手のアーティストたちも熱いですよ。イスラムの伝統文様を若い人たちにも見直してもらおうって、色んな人たちが模索してるって感じです。」
「この前、うちにイラストレーターの人が営業に来てて、タイミングが合わなくて仕事には至らなかったんですけど・・・ほら、こんな感じの絵を描く人なんです。」
差し出されたタブレットに写し出されていた作品は伝統的な柄をあしらったカーペットだった。タブレットを差し出してくれた彼は、自動車やバス、大きなものだと航空機の内装を手掛ける企業に勤めている。向こうの狙いは確かに外れてはいないだろう。
「こういう柄って昔は全部手作業で描かれてたんですけど、彼は何千ってパターンをデジタル化して、短時間で容易に色んな組み合わせができるようにしてるらしいです。だから納期もタイトなものに合わせられるし、手応えありますよ。」
食品を扱う真の会社も、デザインやアートの世界は無縁ではない。パッケージには合理性と共に、人々を惹きつけるための何かを盛り込まなくてはならないからだ。そういう意味で真の仕事もこういう情報を侮るわけにはいかない。
「いいこと教えてもらえて助かります。まだマレーシアに関しては全く無知なので。そういう情報って自分で集めるには限界がありますしね。皆さんは、よくこちらにいらっしゃるんですか?」
各面々が頷くので、真も時間が許す限り足を運ぼうという気になった。同じ日本人という気安さは異国の地において有難い。そして好きで選んだ仕事でも、懐かしく思う場所が同じだというのは案外心強いものだったりする。
「小野村。どう?」
「収穫あったよ、サンキュ。色んな業種の人たちと情報交換できるのは貴重だ。」
「だろ?」
「で?」
真としては堂嶋がここへ連れ出してくれる意味もわかりつつ、やはり一人で呼び出された意図の方が気になる。二人で立ち飲みスペースの隅に立って、真は本日三杯目のビールを手にした。
「じゃあ、こっからは小野村を一人で連れ出してきた本題。」
「ああ。」
「島津のことだよ。」
「・・・理央?」
豪快に酒を空けていく堂嶋を横目に、理央の話を振られて戸惑う。二人で話さなければならないことなんてあるだろうか、と思ったからだ。
「この間は適当に話合わせてたんだけどな・・・俺さ、あいつが誰を好きなのか、わかってんだよね。」
「は?」
飲みかけていたビールで咽せそうになり咳き込む。心臓が嫌に跳ねて、堂嶋を凝視した。
「好きになったのが、七年前だろ?七年前って言えば、あいつが入社した時だ。手塩にかけて世話してたのはどこのどいつだよ。」
自分だよと言いかけて、真は言葉を呑み込む。まさかと堂嶋を見て、思いの外真剣な眼差しとぶつかり、彼が冗談で言ってるのではないのだと気付く。
「言うのが良いのか、言わない方がおまえさんたちのためなのか、俺もそこそこ悩んだんだよなぁ。ただ、あんなの聞いちゃったら、黙ってられないだろ。両想いなのに。」
今度こそ聞き捨てならない堂嶋の言葉に目を見張る。
「何年、おまえと仕事してたと思ってんだよ。ある意味、嫁さんと過ごす時間より長かったことだってあるんだぞ。島津に関しては最初からわかりやすかったけど。シンガポール赴任前に島津を避け出したおまえも、そこそこわかりやすかったよ。」
堂嶋の言うことに頭がついていかず、酔いかけていた頭は一気に冷めた。自分の気持ちがバレていたなんて、思ってもみなかったからだ。
「なんだか微妙な反応だな。喜んでも良さそうなもんだけど。」
爆弾を落としておいて、他人事のように動じない彼に、自分の感覚がおかしいのだろうかという気になってくる。
「悪い・・・ちょっと、混乱してる。」
「まぁ、悩むのは結構なんだけどさ。俺には関係ないし。」
「最低だな・・・。」
真の言葉に意地の悪い笑みで堂嶋が応えてくる。
「指咥えて、眺めてるだけでいいのかよ? 絶対、後悔するぞ。」
「・・・簡単に言うなよ。そもそも、男同士ってとこに抵抗はないわけ?」
「別に。好き嫌いに、男も女も関係ないだろ。島津なりに、一世一代の告白だったんじゃねぇの? この間の話。」
そんな事を唐突に言われても、ピンとこない。少なくとも自分に向けられたものだなんて思いもしなかった。そんな想い人がいたことにむしろショックを受けていたくらいなのだから。堂嶋の勘違いということもあり得るわけだ。
しかし堂嶋の言い方はまるで断言するような言い方だ。彼は昔から人間関係の機微には聡い。ふざけて人を揶揄うのが好きな奴ではあるが、人の心を踏みにじるようなことをしたりはしない。
「おまえもフリーズすることあんだな。」
苦笑して堂嶋は順調にグラスのビールを空けていく。自分のいた世界がひっくり返り、今まで見えていなかったものを一気に突き付けられた気がする。堂嶋の言う通り、理央の気持ちが自分に向いているのだとしたら、と考える。しかしあまりにその考えは都合が良過ぎて現実離れしているようにも思えた。
堂嶋がその後も気にかけて言葉を重ねてくる。しかしそのほとんどはバーの喧騒の中、右から左へと流れていき、碌に耳には入らなかった。
プロジェクトメンバーがそれぞれ上げてきた報告書と企画書を事細かに確認していく。しかしどれを取っても詰めの甘さがある。おおらかでざっくりとした風土と言ってしまえばそれまでだが、テコ入れの必要さを真は感じた。
今回のプロジェクトはマレーシアでの展開だけに絞っているわけではない。いずれはハラル食品を必要とする人たち全体に根付かせたいという野望がある。そのためにはグローバルで通用する仕事の仕方をスタンダードにする必要があるのだ。
食品審査が厳しい国もあれば、パッケージのデザインに対する目が厳しい国など、それぞれの国・地域で独自のルールや求められるマナーがある。それに素早く順応し仕事を進めていくためにも、事細かな気配りと事前の準備が随所に必要になってくる。
マイペースなメンバーたちをどう取り纏めていくか思案し、真はまず主任である理央を呼び寄せた。
「まず市場リサーチの方だけど、少し見ている範囲が狭い。もう少し俯瞰しろ。例えば、病院施設そのもののデータはきちんとここから読み取れるんだが、それだとただの点だ。工場と病院を繋ぐルートで問題になってくる道路事情とか、雨季と乾季で何か環境や人の動きに違いが出てくるならそういう情報も欲しい。」
「はい。」
「そういうデータを近々に収集できる目処はつく?」
「大丈夫です。」
「そうか。じゃあ、引き続きよろしく。後はこっちの企画書だ。デザイン事務所に依頼する時、いつもこういう状態?」
ちらりと目をやれば、真が詰めの甘さを指摘しようとしていることに気付いたのか、恐々と理央が頷く。昔から察しは良い。しかし真が注意をしようとすると顔が強張るのも、あの頃と変わっていない。なんだか可笑しくて悟られないように心の中で笑った。
「俺たちは専門外だからこそ、スタートはより一層大事になる。あちら任せにすれば、出来もそれなりになる。調べてみたら今まで何度か付き合いがあるようだから、こういう状態だとデザインも納期も馴れ合いで適当に流れていくだけになるぞ。わかるよな?」
「はい。」
「俺ので悪いんだけどな、これ。今までその手の仕事で日本とシンガポールでやってきた企画書のストックだ。費用はそれぞれのお国柄だから必ずしも参考にはならないけど、他のノウハウは活かせると思うよ。」
理央が目の前に積み上げたファイルの束を驚いたように見る。
「俺、見ちゃって良いんですか?」
「入社当時のは正直見れたもんじゃないけどな。」
笑って冗談めかして言うと、ようやく理央は肩の力を抜いたようで微笑む。
「真さんにそういう時期があったとか、俄かには信じ難いけど。でも、ありがとうございます。」
「頭の中に全部ストックできればそれに越したことはないけど、人間の頭はそこまで出来は良くないからな。成功したやつも上手くできなかったやつも全部残して整理しておけ。現物があれば、すぐに頭の中から引き出せるだろ?」
「はい。」
渡したファイルを抱えてフッと笑みを溢した理央に目で問う。
「やっぱり真さんだな、って。真さんのテンポって感じがする。なんだか懐かしくて、嬉しい。」
「浮かれてないでモノにしろよ。」
わざと低い声で釘を刺せば、真のデスク前で背筋を伸ばした。このノリの良さと吸収の早さ、そして自分を慕って追いかけてくる姿にかつての自分は心奪われたのだ。そして今もその気持ちがなくなっていないことを自覚する。
社会人としては、重ねた月日の分だけ成長してきたと冷静に分析できる自分がいる。けれど誰にも晒したことのないプライベートな心の核心部分は、何ら変化がないことを苦々しく思った。
「ファイルはオットとラーマンにも回して構わないよ。シンガポール時代のは英語だから、あの二人とも共有できるし。出来の悪過ぎる新人時代のやつを読まれないで済むのは幸いだな。」
そう言うと、理央が嬉しそうに笑う。
「じゃあ秘密にしておきます。」
「そうしてくれ。」
愉快そうに笑っている理央をデスクに戻らせて、ラーマンを呼び寄せる。指導だけで午前中をめいいっぱい使う羽目になりそうな予感に、真はこっそり溜息をついた。
現地から遠く離れた机上の会議は大概的を得ていない。日本で出来たことがこちらで通用するかは全く別の話だ。リーダーだからといってトップダウンの状態にはしたくない。真が先に発言してしまうと後に続く者は引き摺られてしまう。しかし先にメンバーから話を引き出してみたものの、出るものは想像していた範疇を超えてはくれず、話が進まなかった。
「日系企業であれば流通経路がある程度確保されているので問題はないと思います。店舗も増えていますし・・・」
真を除いたプロジェクトメンバー全員が早々に言葉を濁し始めたところで、真は割って入ることにした。
「これまでの流通経路は勿論活かす。だけどそれだけだとやっていることが今までと同じだから。商品をそのままの状態で卸すことばかり考えないでほしい。例えば業務用の形態を取れば飲食店なんかにも卸せる。そう考えていくと、大きな工場で食堂を持つようなところも候補になるだろ。ハラル食品であることと、うちの強みも忘れてもらったら困る。食物アレルギーに考慮した商品も展開していくから病院なんかでも使ってもらえるかもしれない。」
三人全員が興味深そうに頷いてくる。現地スタッフのメンバーも食い付いてくれているようで反応はまずまずだろう。
「今持ってるルートは死守するとして、どれだけ販路を広げていけるかも考えないと。視野を広げれば、隠れてる需要がまた見つかる。そうすれば、また新しい商品開発にも繋がるから。日本と文化が違うからこそ、日本とはまた違う需要が眠ってるはずだよ。日本の市場でも考えられる点を潰していくのと同時に、マレーシアならではの市場も探していく。だからここで長く仕事をしてきている君たちの経験値は何にも勝る武器だよ。そう言われて何か思いつくことはある?」
こういう発言の仕方をする時、真はいつも高圧的にならないように気を付けている。自分の意見を押し付けるのでは意味がないからだ。メンバーを見渡すと、顔を上げた理央と目があった。
「直接利益として結びつくものではないんですけど・・・。」
「何でも構わない。言ってみて。」
少し不安そうにこちらを見ながら、それでも決意したように理央は話し出した。
「モスクには沢山のイスラム教徒の方たちが集まりますよね。大きなモスクだと会議室とかが併設されてるんです。休日の人出が多い時を狙って試食会みたいなものを開けば、ターゲットの方たちへダイレクトな宣伝になると思うんです。」
「なるほどね。広告をばら撒くより、よっぽど効果がありそうだ。ただ神聖な場所だから、売り買いには適さないだろうね。試食会が出来るかどうかの現時点での可能性は?」
理央が現地スタッフのラーマンに目配せをした。事前にこの二人の間で話が持たれていたらしい。ラーマンはマレー系で自身もイスラム教徒だ。
「クアラルンプール市内のモスクの一つで会議室を開放してくれるところがあるよ。知り合いが担当だから話しをつけられる。売買をしなければ大丈夫だってところまで話がついてるから、後は公衆衛生面でどんな手続きをしなきゃいけないかだけど。具体的に出すものが決まれば後はどうにかなるよ。」
現地スタッフの人脈は馬鹿に出来ない。その土地の理を得ているから話も早い。ただの思い付きではなく、きちんと裏付けがあることに感心した。
「そうしたら、ラーマンとオットには認証予定のどの商品が試食会に適してるかまず考えてもらおうか。理央には商品展開できる可能性のあるところに営業をかけてもらう。目星くらいは今付けたいんだが、どうだ? 今まで付き合いのあった日系企業の食堂とか、病院とか・・・。他に何か思い付く?」
三人を見回せば、会議メンバーで一番年長のオットが手を挙げた。
「小野村さん、小学校の給食もいいかもね。」
思い付いたのが嬉しいのか、オットが笑顔でのんびり告げてくる。
「マレーシアでも給食はあるのか? それは知らなかった。」
「というか設備が追い付いてなくて、あまりちゃんとしたものが食べられてないのが現状なんだ。子どもたちはそんなものだと思ってるけど、日本の子どもたちの食べてる給食を見たらびっくりするだろうね。ネットで話題に上がってて知ったんだ。」
オットの切り口はここで生活を営む者から上がってきた貴重な生の声だ。真は自分が持ってきたカードに新たなカードが加わってくれた事を実に新鮮な気持ちで受け止めた。新しいことに挑める高揚感は、飽和状態の日本ではあまり味わえない。
「なるほど。全てが手探りって段階なんだな。でもそれは凄く面白い。良い話を聞いた。」
真はメンバーに頷いて、それぞれの持ち場で早速奮闘してもらうべく、会議を解散した。