*BL小説* 全作品R18です。 閲覧は自己責任でお願いいたします。
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蓮の命日には花を贈らない。なぜなら彼の両親がいつも花束を見繕っているからだ。自分はしつこいくらい彼の月命日に贈ってしまっているから、命日くらい家族の時間にしてやりたい。そんな風に心の整理をしていた。
営業部長になってからは手持ちで駆け回る仕事がほとんどなくなった。だから余程酷いトラブルにでも巻き込まれない限り、蓮の命日に有給で休みを取る事は難しくない。
月に一度、蓮と自分だけだった世界に、いつの間にか香月がそっと寄り添うようになった。土足で踏み込まれている感覚はない。香月の存在はとても自然に自分と蓮との間に入ってきた。
香月と自分の相性は良いと思う。大人になってこんなに誰かに傾倒できる自分を想像したことなどなかった。漠然と、蓮を想いながら一人朽ちていくだけだと思っていたからだ。
香月の家で二泊三日世話になって以降、仕事が少し立て込んでいて、九月に入って一度、花を見繕ってもらった時しか会っていなかった。しかしそれだけの時間でも不思議と香月に会うだけで、疲れや憂いが和らぐのだ。
蓮の実家に顔を出した後、店に顔を出そう。いつも手ぶらで悪いから、今日は何か差し入れでも持って行こうか。そう思うと心が少しずつ浮き足立っていった。
蓮の実家のインターフォンを鳴らすと、おばさんが応答してくれる。しかし出迎えてくれたのは彼女だけでなく、この後会うものだとばかり思っていた香月の姿もあった。
「ようこそ、勝田くん。お久しぶりね。元気にしてた?」
「ご無沙汰しています。おばさんこそ、お元気にされてましたか?」
もちろんよ、と笑顔で出迎えてくれた彼女の隣りで、香月が気まずそうに苦笑いをしている。どうしてここにいるのかと問いたい気持ちもあったが、動揺して上手く言葉も出ない。
「こちらはね、香月先生。お花の教室でお世話になってる先生で、蓮に供える花も、今日は見繕っていただいたのよ。とっても綺麗なの。勝田くんも、後でゆっくり見ていってね。」
「はい・・・」
何も知らない彼女だけが、おっとりと紹介を続ける。
「あ、香月先生。こちらは、蓮の幼馴染みで・・・」
「存じております。ね、勝田さん。」
「あらまぁ、そうなの?」
「勝田さんとは、お友だちでして。」
何と説明する気なのか一瞬ヒヤリとしたが、香月は店の客だとは言わなかった。正直ホッとした。何のために花を毎月買っているのか知られたら、おばさんは何を思うだろうかと気が気ではなかったからだ。
「それは良かったわ。気兼ねしなくて済むものね。勝田くんもどうぞ上がってちょうだい。」
「はい。お邪魔します。」
おばさんに持ってきたお茶菓子を渡す。まさか香月がここにいるとは思っていなかったから、彼にも同じ物を用意してしまった。香月の方に顔を向けると頷いたので、彼の分もおばさんに渡す。
台所へ彼女が姿を消した後、小声で香月に問う。
「俺がここへ来るって知ってたの?」
「知りませんよ。もしかしたら、って全く思ってなかったわけではないですけど。」
首を傾げると穏やかな顔で、淡々と告げてくる。
「斎藤さんの息子さんの話を伺ってたのは、勝田さんとまだちゃんと話したことがなかった頃ですよ。勝田さんが花を贈っていた相手と、斎藤さんの息子さんが同じ人だったのはビックリです。」
「世の中って狭いね。悪い事できないな・・・」
「悪い事してるわけじゃないでしょ。」
「どうだろ・・・」
確かに悪いことではないんだろうけど、居た堪れないというか落ち着かない。誰に対してそういう感情を抱いているのか、考えるまでもなく香月だという結論に至って、軽くはない衝撃を受ける。
気にしている。香月の反応を。いつまでも幼馴染みへの感情を持て余している自分に、香月が幻滅しないか心配になっている。
何度打ち消しても消えないその感情。もうこの心は香月に囚われているのだと認めるしかないではないか。
「勝田さん。ホントに、ただの幼馴染み?」
自分に合わせて小声で問うてきた香月の目は思いのほか優しい眼差しだった。責めてるわけじゃない、そう諭すような目に、苦笑いをして小さく首を振る。
「そりゃ、そうですよね・・・」
深い溜息をした香月の様子を恐る恐る確かめる。しかしスルリと手と手が触れて、おばさんがリビングへと戻ってきたのを合図に、彼の手は何事もなかったように離れていった。
ただご飯を共にし、お酒を飲み、そして二人で同じ布団に潜り込む。そして日曜日の昼、勝田は帰っていった。
勝田の顔が曇っていたのは斎藤夫人が来た後の、ほんの僅かな時間だけだ。やはりあの時感じ取ってしまった違和感が拭いきれない。
嬉しそうに去っていった勝田に反して、皐は晴れない気持ちで月曜日を迎えていた。
今日はフラワーアレンジメント教室で、斎藤夫人と会う。彼女の亡くなってしまった息子の話は何度かかい摘んで聞いたことがある。皐の方から掘り下げるのは躊躇われるが、どうしても気になる。
根拠といえば勝田の態度くらい。けれど自分の勘が何かあると告げていた。勝田が花を手向けに通っている川沿いの土手と、斎藤家のお宅はさほど距離もない。勝田がここで生まれ育っていたとしたら、勝田と斎藤夫人の息子が顔見知りであった可能性は十分にあり得る。しかも年の頃合いも同じくらいだろう。
知りたいような、知らない方が良いような、複雑な心境だ。知ったところで自分が勝田の支えにならないのなら意味がない。かえって勝田を傷付けるだけかもしれないのだ。
皐は花屋の二階に上がって、今日使う花材の準備を進めていた。勝田が手伝ってくれた針金を二十本ずつ分けて置いていく。
斎藤夫人がもしまた息子の話をしてくるような事があれば少し掘り下げてみればいい。してこなければそれまでだ。そこまで考えて、悩むことをやめる。心の変化がそのまま作品に出てしまうからだ。
人を笑顔にするための教室。だから教える立場の自分が一番朗らかな気持ちでいたい。
深呼吸をして今日仕入れてきた花たちを眺める。一足早く実りの秋を感じられるように揃えたラインナップ。開け放った窓からは熱気が流れ込むと同時に、風がそっと肌を撫でていく。
季節が移り変わっていくように、勝田の心にも変化が訪れて欲しい。皐はススキの穂が揺れる様に暫し見惚れ、秋の訪れを待ち遠しく思った。
約束通り、きっかり三十分遅れでやってきた斎藤夫人は、ススキを懐かしそうに眺めていた。昔は近くの土手にもたくさんあったらしい。皐はコンクリートで固められてしまった後のことしか記憶にないので、身近に自然の営みを感じられる場所があった彼女たちを羨ましく思う。
「私の息子もね、よくあの土手で遊んでいたわ。」
亡くなった息子の話が出てきて、心臓が嫌な跳ね方をする。
「お友だちと泥だらけになるまで遊んで、そのまま家に上がろうとするのよ。そのたびに怒ったものだけど、めげずに次の日はまた泥だらけ。」
「それじゃあ、お掃除、大変じゃありませんでした?」
「そりゃ、もう・・・。でも子どもは元気なのが一番。でも不思議ね・・・あの子生きてたら、香月先生より上なのよ。随分とおじさんね。」
「近所だから呑み友だちにでもなってたかもしれません。」
「まぁ、そうよね。歳が離れてても、お酌し合うのは楽しそう。どうしようもない事で盛り上がったりするのかしら。」
「お酒が入ると、自然と距離って縮まるものですよ。一度息子さんと飲んでみたかったな。」
「そうね・・・あ、そうだわ、香月先生。」
リースを作るべくススキの穂で輪を作っていた斎藤夫人だったが、急に手を止めて皐の方を見る。
「うちの子の命日にお花をお願いしたいんです。誕生日の時作っていただいたお花、主人も気に入ってね。是非またお願いしようって話になって。今回は一万円くらいで見繕っていただきたいの。」
「もちろんです。あの・・・もしよかったら、自分も手を合わせに行きたいんです。」
斎藤夫人が驚いたように、けれど嬉しそうに破顔する。
「わざわざ悪いわ。」
「何度もお話しを伺っているうちに、他人事ではなくなってきて。もしご存命だったら親しくなれたかもしれないと思うと、会いたくなりました。」
勝田のことがあるから気に掛かっているのも事実だが、本心から手を合わせたいと思っていた。
病気で高校生の時に亡くなってしまった斎藤夫人の息子さん。明るく活発なサッカー少年だったそうだ。そんな彼は病という壁にぶち当たり、還らぬ人となった。
やりたい事が沢山あっただろう。三十二年生きた自分ですら、死を身近なものには感じないというのに。彼はたった十八年で、未来への道を断たれたのだ。
自分がもしそんな状況になってしまったら、悔しくて堪らなかったと思う。まだ何も成し得ていないと、正気ではいられなかっただろう。
けれど彼はそんな自分の運命と向き合って、その生を全うしたのだ。亡くなった時、とても安らかな顔だったと斎藤夫人は語っていた。
そんな彼に会ってみたいと思う。彼の誕生日の時に見繕った花は、春らしい華やかな装いになるよう心掛けた。喜んでくれただろうか。
命日の花も彼が寂しくなったりしないものにしたい。命の輝きを自分の手で彼に届けよう。
「斎藤さん、当日はお宅までお持ちします。」
「まぁ、嬉しいわ。あの子もきっと喜ぶ。」
「はい」
人との縁はきっと自分の糧になる。彼の事を知ったのも、きっと何か意味がある。勝田の事も然りだ。
季節はとどまることなく巡っていく。出会う事の叶わなかった彼。皐はその彼に贈る花を思い描きながら、斉藤夫人にもう一度微笑み返した。
開店しようと半開きだったシャッターを完全に上げようと外へ出る。すると壁に寄りかかってこちらを見る勝田がいた。
「勝田さん・・・来てたんですか・・・」
「うん。でも居たらお邪魔だよね?」
「そんな事ないですよ。店の奥、事務所ありますから。そっちなら、涼しいですよ。」
暑い中、首を傾げて問うてくる姿は涼しげだ。けれど彼の白い肌が直射日光を浴びて少し痛そうだった。皐が用意しておいたシャツをそのまま着たようで、胸の少し開いたデザインにしたのは失敗だったなと目を逸らす。首筋と鎖骨のラインが色っぽくて、目のやり場に困ってしまう。
「勝手にシャワー借りちゃった。」
「いいですよ。夏だからその方がスッキリしますし。」
ぎこちなく返して、勝田に中へ入るよう促した。気を許しているのか、鉄壁の仮面なのかわからない笑みを浮かべて、勝田が店内へと足を踏み入れる。
「じゃあ、お邪魔する。」
「どうぞ・・・」
自分のテリトリーにすんなり溶け込んだ勝田は、やっぱり花に似ている。掴めそうで掴めない背中をどうにか捕えて抱き締めたい。できるはずもないことを考えて、結局思考を振り払う。そして皐は準備に集中することにした。
土曜日は客層がバラバラだ。平日は常連客がほとんどだから顔見知りで話も弾む。しかし休日は普段花を手にしない人たちが足を運んでくるので、応対も変わってくる。
友人の晴れ舞台に花を添えに行くためのもの、家族の誕生日プレゼント、恋人への贈り物、そして勝田のように亡くした人へ手向ける花もある。
花と一緒に喜びに溢れた時間を過ごしてほしい。皐がまず一番に望むことだ。けれど勝田はどうなのだろう。寂しさだけを花に重ねているのだとしたら、そんな悲しいことはない。
勝田を救えるなんておこがましい事を考えているわけではない。寄り添って、彼の心の傷や苦しみを分かち合いたい。後悔に時間を費やせるほど、人の人生は長くはないのだ。
勝田に寂しい顔をさせるものがなんなのか、明確な答えを知っているわけではない。けれど今この瞬間訪れている時間を大切にしてほしいと思うのは、傲慢だろうか。
月曜日のフラワーアレンジメント教室で使う針金を勝田がニッパーを使って量産していく。普段やらないであろう単純作業にハマったらしく、事務所のテーブルで黙々と作業をしている。
こんな彼を見られるのはきっと皐だけだろう。妙な高揚感を覚えながら、勝田の姿を目の端に入れて接客をした。
カートを押しながら店の前にやってきた年配の女性がおっとりと会釈してくる。
「香月先生」
「あ、斎藤さん、こんにちは。」
今年で七十歳になった彼女は、ここの常連であり、教室の生徒でもある。品が良くて、いつも朗らかな笑みを湛えている彼女のことが、皐は好きだ。こういう風に年を重ねていけるなんて、素敵だと思う。今日も華やかな色合いの服を身に纏い、お洒落に余念がない様子だった。
「月曜日、三十分くらい遅れちゃいそうなんだけど、大丈夫かしら?」
「大丈夫ですよ。もしかして、わざわざいらして下さったんですか?」
「病院の帰りなの。」
「どこか、具合でも?」
「大したことないのよ。ちょっと目が乾燥しちゃうものだから、目薬をいただいてきたの。冬でもないのに、老人になるとあちこち不都合が出て困っちゃうわ。」
歳を取るとそういうものだろう。生徒の大半が年配の人なので、教室での話題が時々病気自慢になっていたりする。
「大事な身体ですから、労ってあげないと。家の仕事は旦那さんと分け合って下さいね。口では悪態ついてても、男は頼られると嬉しい生き物ですから。」
「優しいわねぇ。うちの主人と香月先生、入れ替わったりしないかしら。」
楽しげに笑う斎藤夫人につられて、皐も笑う。人の笑顔は元気をくれる。手を振って彼女に別れを告げる。
「では月曜日、お待ちしてますね。暑いのでお気を付けて。」
「ありがとう。」
上機嫌で店の奥へ戻ろうと振り向くと、思いのほか近くに勝田が出てきていて驚く。そして難しい顔をして店の表の方へと視線をやっているのに気付き、皐は内心首を傾げた。
「勝田さん?」
「ん? あ、いや・・・何でもないよ。」
何でもないという顔ではない。追及しようとして出そうになった言葉を咄嗟に呑み込む。すぐに背を向けて奥へと行ってしまった勝田の背中に拒絶を感じたからだ。
皐が斎藤夫人と話す声を聞き、表へやってきたのだろうか。もしそうだとしたら。皐は思いを巡らせてハッとする。
斎藤夫人が亡くした息子と、勝田が花を手向ける相手がもし同じだったとしたら。
そこまで思い及んで、まさかと思い直す。勝手に決め付けて暴走するのは良くない。気にはなるけれど、勝田が触れてほしくないと望むなら、彼の意向に沿いたい。
強い陽射しを浴びてもへこたれない花たちを見ながら、そっと溜息をつく。勝田の一挙手一投足に振り回されっぱなしだ。そしてそんな自分が嘆かわしくも新鮮味を感じるのは、それだけ彼に心動かされているということだ。面倒だけど楽しい時間。
皐は複雑な感情を持て余しながら、天に向かって咲く花たちを見て、暫しその感情に浸った。
久々にぐっすり眠って起きてみたら、香月が作っていったと思われるご飯の良い香りが待ち構えていた。こんな心温まる朝は初めてだ。
香月は朝からしっかり食べる性分らしい。ご飯に味噌汁、焼いた鮭にほうれん草の胡麻和え、キュウリの漬物。こんなきっちり朝からご飯を食べるなんて、それこそ実家を出てから一度もないかもしれない。
顔を洗って微かに纏っていた眠気を飛ばす。そして彼が貸してくれた寝巻きを着たまま、朝食の整えられた席に着いた。
テーブルを挟んで反対側の椅子には無造作にエプロンが掛けられている。モノトーンのそれは、きっと身体の引き締まった彼をとてもスタイリッシュに見せるだろうなと、想像して少し頬が緩む。
花屋の仕事は繊細さも求められる一方で、とても力のいる仕事だと聞いたことがある。ジムなどで鍛えている人と遜色ないくらい、腕まくりをした香月の腕は引き締まって綺麗な線を描いていた。
背格好はあまり自分と変わらないけれど、脱いで彼と身体を突き合わせたら、自分の身体は大層貧弱に見えるだろうなと思う。ちょっと彼を脱がせてみたい。逞しい腕で抱き締められたら、さそがしい心地良いだろうな、というところまで妄想して、結局やめた。朝から考える事じゃない。ただ、自分はそういう意味でも香月に興味があるのだと、はっきり自覚して溜息を零す。
「ご飯、美味しそう・・・」
思考を強制的に目の前の朝食へと向ける。実際とても食欲を誘う香りだ。視界にすぐ電子レンジが見えたので、ご飯と味噌汁だけ温めることにする。
「一緒に食べたかったな。」
そして、出来たてを一緒に食べて、美味しいよと彼に言いたかった。今日もなし崩しに泊まり込んで明日の朝を一緒に迎えればそれも叶うのかな、と考える。
恋人にはならないと言い張っているわりに、香月の優しさに浸りたい自分。ずっと忘れていた、人と一緒にいる温かさと心地良さを、香月は思い出させてくれた。
「どうしよう・・・」
付き合ったら、きっと後悔する。そして後悔させてしまう。想いを返し切れない自分に嫌気がさして、逃げたくなるだろう。
思考はずっとそこを行ったり来たりするだけだ。一緒にいたい。でもこの関係に明確な言葉は欲しくない。なんて自分は狡いんだろう。
本音を伝えたら、どんな顔をするだろう。けれど溢れてくる人恋しさに、心は震えっぱなしだ。
欲しい。とても彼が欲しい。香月と共にいられる時間が欲しい。いつもじゃなくていい。時々で良いのだ。この温もりに溢れた時間が欲しい。
電子レンジが甲高い電子音を立てる。取り出して、フワッと鼻をくすぐった味噌の香りがあまりに懐かしく、泣きそうになった。
会いたい。今すぐ彼に会いたい。朝は開店の準備で忙しいはずだから自分が乗り込んで行ったら迷惑なのはわかっているけれど。
「いただきます。」
食べる時に手を合わせて、いただきますを言うのは、何年ぶりだろう。忘れていた、日常の中にある小さな幸せ。香月はそれを自分に思い出させてくれる。自分がいかに今の幸せに目を向けていないかわかってしまった。
蓮との思い出はとても大切なもの。自分にとってかけがえのない時間だ。けれどそれは過ぎ去ってしまった過去であり、もう二度とあの時間は戻ってこない。過去に思いを馳せるだけだった自分は過去をずっと生きていたんだと気付く。
香月がくれる幸せは、今の自分を捕えて離さないもの。どちらに目を向けるべきなのか、わかりきったことだ。
おかずを口に運んで、その優しい味に安堵する。
正直に気持ちを打ち明けてみて、ダメでもしつこく付き纏ってみようか。だってこんな優しさに触れて離れるなんて、もう無理だ。
どうしてくれるんだ。せっかく封印していた弱い自分。こんな厄介な気持ちを呼び起こして、捨てられでもしたら、もう立ち直る気力なんて自分にはない。もう脇目も振らず駆け抜けられるほど、自分は若くないのだ。
涙腺が緩んでも、涙までは溢れなかった。どうやら堪えるだけの忍耐力とプライドはまだ自分の中にあるらしい。
ゆっくりと懐かしい味を噛み締めるように、ご飯を口へと運ぶ。やっぱり一緒に食べたかったなと残念に思って、美味しかったと伝えようと心に決めた。