部下の一人が得意先の担当を怒らせ、その収束に向かった帰り道、どうにか繋ぎ止めチャンスを貰えたが、怒鳴られっぱなしで神経はすり減ってしまった。
営業部長になり、役員になり、部下の不始末に走り回ることだが主な仕事の一つになったとはいえ、別に怒られることを快感におぼえる趣味はない。人より開き直りも早い方だし、その事に引きずられることもないが、人並みに嫌だと思う感覚はある。
怒らせた当人も恐縮していて、楽しく飲みに行く雰囲気でもない。そもそも彼はこの仕事にケリをつける必要があるから、これから営業部長と共に残業コースだ。
しかし自分はここで離脱しなければならない。テコ入れしたいけれど手出しができない立場は自分に心底向かない。
魅惑的な果実を差し出され確かにこの目に映っているのに、それを手に入れるための手段を全て断たれている状態。今の自分には仕事の醍醐味を味わうチャンスがなく、ふわふわと雲の上で皆が七転び八起きしている姿を、指を咥えて見ていることしかできないのだ。
つまらない。本当につまらなくて、悲しかった。こんな事なら仕事を辞めて、隠居でもしてしまおうか。香月の店を手伝って、水仕事で手を痛めたり、重い物を運んで汗を流している方が、よほど魅力的な生活に思えた。
花屋の仕事を舐めているわけではない。自分は苦労がしたい。衝撃を受けて落ち込んで、這い上がって達成感を味わうという、いつでもドラマティックな現実が欲しいのだ。
部下たちと別れ、会社からジムまでの移動中、勝田は終わりなくそんな事を考え続けた。
* * *
二人で向き合って食べる夕食が当たり前になって、もう数年という年月が経った。それまでどうやって一人の夕食を過ごしてきたのか思い出すことは難しい。
体調管理のために義務的に咀嚼していた食事が楽しいものだとは到底思えない。そんな味気ない夕飯をまた過ごさなくてはいけなくなったら、自分は寂しくて死んでしまいそうだ。
「どうしたんですか? 溜息なんてついて。」
こうやって些細な変化に気付いて気を遣ってくれるのも香月だからだし、一人だったらあり得ないことだった。
「人生に迷ってて・・・。」
「人生・・・ですか?」
香月が茶葉を蒸して丁寧に淹れてくれたお茶をすすりながら、苦笑して吐露した。数年前、まだここへ転がり込んできたばかりの自分だったら、こんな容易に気持ちをこぼしたりしていなかっただろう。
数年という年月は自分の心を軟化させ、弱くするには十分な年月だった。けれどそれがダメな傾向だとは思わない。
一人で生きることも、一人で気持ちを抱えていることにも、自分は心底疲れていた。何でも真剣に聞いて心を砕いてくれる恋人の存在は、神様からの、否、蓮からの贈り物かもしれないと思っているから。
「仕事・・・最近、あまり楽しそうに行かないですよね。」
「皐にはバレバレだね。」
「楽しくないなら、自分でそれ自体を楽しくするか、他に魅力的なことを探して別の生き甲斐を見つけるか。」
「うん、そうだよね。」
「凌さんは、俺より、ずっとその事をわかってる人だと思う。」
「うん・・・未練があるんだ。どうにか足掻きたいけど、手足をもがれて暴れることもできそうになくて。でもずっと好きで楽しくて仕方なかった仕事だから、去ってしまうことに心残りがある。」
香月が空になった勝田のカップに新しい茶を淹れてくれる。ふわりと優しい香りが鼻腔をくすぐって、少し感情的になりそうだった気持ちが凪いでいく。
「凌さんの仕事のことは俺には見当がつかないけど、今の仕事がつまらないなら、やり残したことをやるとか。若い頃やりたかったけど、若いからこそできなかった事とか。そんなもの、あるものなのか、わからないですけど・・・。」
「そうだね・・・。若いからこそ、できなかった事か・・・。ある。いっぱい、ある。やってみようかな。またアイツ変な事やってる、って思われそうだけど。」
香月に指摘された事を考えなかったわけではない。十年前の自分だったら迷う事なく着手していただろうけど、自分で思っていた以上に臆病に、あるいは怠惰になっていたのかもしれない。
会社で勝田を叱れる人間はそう多くない。だからこそ謹まないといけない事も増えて、自分の心は窮屈になっていった。
自由奔放な自分に戻ってみようかという気になってくる。そう思えば途端に心は軽くなった。
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朝霧とおる