普段全く鳴らないスマートフォンが胸ポケットで震えた。ディスプレイを見れば《多田聡》と出ていた。個人名が出るということは、多田も携帯からかけてきているということだ。
「はい、柚乃宮です。」
『お疲れ。進捗状況はどう?』
進み具合を聞いてくるということは、多田は一区切りついたのだろう。携帯電話からかけてきているから、もしかしたらすでに業務を終えたのかもしれない。壁の時計を見上げれば午後七時前だった。
週末の飲み会で週明け一週間は激務だと脅されていたが、蓋を開けてみれば自分に回されてきたのは組版の補助だけだった。しかもメインで動いているのはDTP課のメンバーだから指示を出されてこなすものが大半だ。明日の昼までに終えればいいので、無理に今日片付ける必要はなかった。
「目処はついてるので、帰れますよ。」
『五分、十分で出られる?」
はい、と返事をして一階のエレベーターホールで落ち合う約束をする。
『今日も我が家に来るのに異論はない?』
「……ありません。」
一瞬深く考えそうになって、結局やめた。何か言い返したって、またどうせ丸め込まれる。多田は柚乃宮のことを好きらしいが、だからといって何か強いてくるわけではない。
そもそも多田が何故自分なんかを好きなのかがわからなかった。でも他の誰よりも目を掛けてもらっていた気がするから、やはりそうなのだろうと思う。それに柚乃宮を好きだと考えれば、今まで不思議に思っていた多田の言動の数々が納得できた。
柚乃宮を好きだということは、男が好きだということなのだろうか。けれどそうだとしたら、女性と噂にならなかった事も理解できるし、夕飯に誘われた時もそれらしき人と連絡を取り合うような素振りがなかったのも納得できる。好きだと言われて驚かないわけではなかったが、ストンと心に落ちたのも事実だった。
多田は柚乃宮より九つも先輩で、営業三課にも部下がいる。考えてみればその彼らを差し置いて誘われていたわけだから、自分が女だったらすぐに気があることに気付いただろう。同性だというフィルターがあったことで、周囲も自分も真実を見出せていなかったのだ。
返事が欲しいとは言われていない。多田はどうする気なんだろう。柚乃宮がこのまま何も言わなければ、そのままでも良いということなのだろうか。
あれから何度か考えて、結局結論は出ていない。柚乃宮が追及でもしない限り、なかったことにでもなりそうな程、多田はそのことに触れない。
けれど暫くの間、柚乃宮を留め置く気でいるということは、夕飯を一人味気なく過ごす必要がない。人の優しさに飢えていて、言い方は悪いが自分はそこに浸け込まれているのだ。けれどその相手が多田であるからなのか、不快感は一切なかった。
多田が面倒を見るのが嫌になるのが先か。柚乃宮が絆されて懐柔されるのが先か。
元来自分は流されやすく、現金な人間だと思っている。多田の側が心地良く離れ難くなれば、案外過去を話せる日がやってくるかもしれない。
多田からの電話を切った後、課長とDTP課の社員に進捗の報告をする。色好い返事を貰って、帰り支度を始めた。
柚乃宮は他の課員の空の紙コップを回収して纏めていく。新人の頃に何とか課員と話すキッカケを作るべく始めた事だったが、いつの間にか習慣になっていた。元々飲みっぱなし、食べっぱなしで散らかすのは好きではない。志摩課長を筆頭にここの課員はその辺りがルーズなので、酷くなる前に折をみて回収して回っている。
「お疲れ様です。」
課長が山積みの書類の合間から手だけ振って寄越した。
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