自分はエレベーター運が相当ないようで、今日も結局階段を駆け下りた。多田は一階のエレベーターホールで本を読みながら壁に寄り掛かっていた。何をしても様になるのは反則だと思う。微かに弾んだ胸の鼓動に気付かないふりをして、多田に声を掛けた。
「お待たせしました。」
「早かったね。行こうか。」
多田が本に栞を挟んで鞄へと仕舞い込む。柚乃宮が隣に来るのを待って、並んで歩き出した。
タッチパネルに社員証をかざしていつも通りゲートを抜けようとしたその時だった。
ふと視線を感じて目をやったロビーに、赤のロングスカートを履いた、決して見間違えようのない人物を見つけた。一瞬その場で凍り付き、次の瞬間には回れ右をしてゲート内に入り直した。そのまま振り返ることなくエレベーターホールまで走って戻り、文字通りしゃがみ込んだ。
多田に声も掛けずに戻ったことなど頭にはなかった。見つけてはいけないものを、確かにこの目は見たのだ。
母だった。間違えようもない。ようやく逃げおおせたと思っていたのに、あの人は自分を見つけ出してしまった。
「おい、ちょっと……どうしたんだ。」
多田の声が頭上近くから降ってきて、ようやく彼を置いてきたことに気付く。
謝ろうと思って口を開いたが、パニックで上手く言葉が出なかった。
「柚乃宮、大丈夫か……?」
肩に置かれた多田の大きな手から、じんわり温かさが伝わってくる。その温もりに詰めていた息を吐き出して、多田の服の袖を縋るように掴む。
「柚乃宮、ここだと目立つから、休憩室に入ろう。立てる?」
退社のラッシュ時で、先ほどからエレベーターを降りてくる人がひっきりなしに通っていた。こんなところで蹲っていたら注目されてしまうことに言われて初めて気付く。ノロノロと立ち上がって、エレベーター脇の休憩室に入った。
幸い中は無人で、ホッと息を溢した。
「柚乃宮、どうした?」
答えようとして戸惑った。どこからどう説明したら良いかもわからないし、それが簡単に言ってしまえるなら、そもそもこんな事にはなっていない。けれど何も言わないのはおかしいし、紡げる言葉を探す。
「赤いスカートを履いてた女の人……。」
「赤いスカート……あぁ、ロビーのドア付近にいた人?」
何とか上手い説明の仕方はないものかと頭を捻る。しかし名案は何も浮かばない。
「まさか、ストーカーとか?」
ストーカーとは違うが、母の異常な執着と行為を考えれば似たようなものだろう。他に適当な言葉も浮かばず、頷いてみせた。
「そういえば、あの女性……俺が今日外回りから帰ってきた時も見かけたんだ。もうかれこれ五時間以上いるかも。知ってる人なのか?」
五時間という時間にまず驚き、執念を感じて身が竦む。
言ってしまえば、楽になるだろうか。
言い始めたら止まらなくなりそうだった。多田といると縋りつきたくなる瞬間がたくさんある。今朝もうなされていた柚乃宮を起こして、ただ何も言わずに手を握ってくれた。髪をそっと梳く手は優しく、人の温もりに飢えている自分には心に沁みた。
もう全て吐き出して楽になれたらいいのに。けれどこんないい人に軽蔑されたらそれこそ耐えられないだろう。澱んだ沼に捕らえられている自分は、とても汚い存在だ。
「あの人から逃げることが出来たんだ、って思ってたんです。だけど夢でも俺を追いかけてくる。やっぱり逃げられないんだって、あの人はずっと……。」
頭の中がぐちゃぐちゃで、自分でも何を言いたいのかわからなかった。吐き出した言葉は多田には支離滅裂に感じただろう。
「柚乃宮、あの人は誰なの?」
冷静さを欠いている柚乃宮とは反対に、多田の声はいつも通りよく響く穏やかな声だった。
けれど誰であるか言おうとして一瞬戸惑う。けれど結局言うしかないように思えて観念した。
「……俺の……母親です。」
「お母さん……?」
きっと多田にとっては予想外の人だったはずだ。普通、自分の母親をストーカー呼ばわりしたりしない。けれど多田の中で何かが繋がったのだろう。多田の言葉に、今度は柚乃宮が驚いた。
「虐待から逃げてた、とか?」
目を見開いて、多田を凝視してしまった。
ああ、どうしてこの人にはわかってしまうんだろう。柚乃宮が何も言わなくたって、ちょっとした仕草や態度で多くを悟ってしまう。後輩としてその恩恵をずっと受けてきたのに、肝心な時にその事を忘れていた。
「柚乃宮。もしかしたらデザイン課にかかってきてた電話、そうなんじゃないのか?」
その一言でハッとする。課長が他の部署にも言い触れ回ったおかげで、イタズラ電話の話は周知の事実だった。非通知で連日鳴らされていた電話、執拗なあの電話はもしかしたら母がかけていたものかもしれない。
「どうしよう……家、帰れない……。」
勤め先を知っているという事は、自宅の在り処も突き止めている可能性が高い。頭が真っ白になっていく。
「柚乃宮、落ち着いて。今は俺の家にいるわけだし……暫く一緒に通勤すればいい。ここの地下に駐車場があるのは知ってる?」
「……あ、そうか……。」
「あそこもこの階と同じ様に出入り出来るから。なんなら俺の車で通勤した方が見つかる恐れも少ないかもしれない。営業は届け出れば車の通勤でも大丈夫だから、な?」
いつも通り冷静に諭してくれるのが有り難かった。動揺した頭は、そんな事も忘れていた。社内便の受け取りにも地下駐車場を使っていた。
考えてみれば、営業部では自家用車で営業に出ている社員もいる。会社から支給されている車は複数人で一台。数が足りていないため、営業に車を使う社員は車通勤が許可されていた。多田は普段、電車を使っているから乗ってきていないだけだ。
「柚乃宮、早いとこ地下から出よう。なんなら変装しておく?」
多田が鞄の中を漁って取り出したのは、使い捨てマスクだった。
「花粉症予防。外回りが長くなる時に使ってて。ちなみにそれは未使用だから、安心して。無いよりマシだろ?」
マメな多田らしい用意の良さで、何だか笑えた。さっきまで胸に痞えていたものが、スッと落ちていく。
「柚乃宮のお母さん、おまえが出てきたことには多分気付いてないよ。俺の後ろを歩いてたわけだし、出入りしてた人も多いから見えてないと思う。」
立ち上がった多田に倣って、柚乃宮も後に続く。
よく思い出してみれば、柚乃宮を見ていたというよりゲート全体を見ていたのかもしれない。自分の思い過ごしであってくれればいいと、今は願望を信じることにした。
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