いつもの窓際を選ばなかったのは、淡い照明に身を潜め、心の乱れを落ち着けたかったからだ。
水槽の前に陣取ると、ひらひらと揺らめく金魚たちが永井を慰める伸びやかな舞を披露してくれる。
人差し指を球体の水槽へ伸ばすと赤い衣をのんびり揺らめかせて一匹が近付いてきた。しかし口を数度パクパクと開いて何もないことがわかると、怒るでもなく萎れるでもなく、また器用に尾ビレを振り方向転換して去っていく。
綺麗に平らげた皿を前に、いつものような充実感がない。今日は味もよくわからないまま、食べ物が喉を通り胃へ落ちていった。未だかつてない衝撃的な朝に麻痺していた午前中。詰め込んだ仕事から一旦解放されて頭を休めた途端、永井は身の置き所がわからない不安に襲われていた。
金魚は自分のように失敗に苛まれ、くよくよ悩むこともないのだろう。過去の自分を悔いたり、臆病風に吹かれて時間を過ごす虚しさに、何度肩を落としてきたかわからない。考えたところで起きてしまったことは変えられないというのに、負のループに思考は嵌ってしまう。
タイマー通りに餌が落下すると、金魚たちが水面で賑わいをみせ、餌がなくなったとわかると未練もなさそうに散っていく。彼らの単純な思考に慰められ、永井は羨望の眼差しで藻の間を泳ぐ金魚を見つめる。
「やっぱり、思い出せないな……」
昼時を過ぎた店内にはポツポツと客がいるだけで、永井の独り言を耳にとめた者はいなかった。スケッチブックを開いていたが、ちっとも案出しは進まず、意味を見出せない線が紙の上で乱れているだけだ。
見た目も華やかな美味しい料理に舌鼓を打ったが、気付かぬうちに禁断の果実を食べていたのだろう。店名がフリュイ・ルージュなんて皮肉だ。フランス語で赤い果実。知らなければ安穏とした日常から追放されることはなかったのに、宮小路の甘い言葉に酔って永井は口にしてしまったに違いないのだ。
本来交わるはずのない自分たちが関係を持った時、痛みを負うのは身の丈を超えたものを欲した永井の方だろう。
頬杖をついて、もう何度目かわからない溜息をつく。宮小路とどんな夜を過ごしたのか思い出せないことが歯痒い。少なからず残念な気持ちを抱いていることも、永井は諦めに似た気持ちで受け入れ始めていた。
邪険にされなかったことは幸いだが、宮小路が本気で永井のことを口説こうとしているとも思えない。彼にとっては日常茶飯事に起こることで手馴れているだろう。だから宮小路にしてみれば一夜の情事など騒ぎ立てることではない。そう考えるとしっくりくると同時に胸が苦しくなった。
胸にぽっかりと大きな穴が空いて、不安定な心は突然熱くなったり冷えていったりと忙しない。あんな優しい抱擁に、遠く憶えがなくて、厚い胸板の感触を思い出しては、今朝の光景に意識が飛んでしまう。もう二度とないかもしれないから、もっと味わえば良かったと、そんな意味での後悔もあった。
「永井さん、お疲れですか?」
「あ、いえ……ちょっと考え事を……」
「永井さんがぼーっとしてらっしゃるの、珍しいですね。お時間は大丈夫ですか?」
「……時間……あッ!」
智子の一声で我に返り腕時計の針を確認すると、約束の二時へ向けて着実に針が進んでいた。すでに十分前を切っていた。
テーブルの上に広げていたものを急いで鞄へ詰め込み、勢いよく席を立ち上がる。テーブルの脚に足先を強打して呻きそうになったが、急く気持ちの方が優って、辛うじて堪える。踏んだり蹴ったり。今日はこういう日なのだ。
「た、助かりました。お会計、お願いします。」
「慌ててる永井さんも貴重ですね。」
なんだか嬉しそうな智子に苦笑いを返し、永井は財布から千円札を一枚抜いて、すぐ鞄へ仕舞い込む。お釣りで受け取った百円玉三枚はパンツスーツのポケットへ突っ込み、永井は店を飛び出した。
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朝霧とおる