事務所に出勤したあと、井伊夫妻に展示会での成果を報告し、永井はすぐ自分のデスクにしがみ付いて作業に没頭した。
宮小路の口車に乗せられて軽く仕事を引き受けたものの、弱小のデザイン事務所にはサンプル作成の予算を組むのも一苦労なのだ。もちろん後々本契約に至れば費用の回収は叶うわけだが、宮小路の付き人らしき鎌田という男のことを思い出して、生温い夢から醒めた。公私混同はされたくない。
何はともあれ、午後の約束を果たしてこそ。昨日展示会場で会った紡績工場の担当者にも連絡を取って、作成した見積りと整合性を取っていく。
宮小路との間で立て続けに起こった事態は永井のキャパシティを超えていた。しかしそれ以上に思考を割くだけの余裕が永井にはなかった。生々しい肌の記憶もないので、現実味がないのも事実だ。
犯した誤ちは受け止めるしかない。宮小路の出方が想像の斜め上ばかりをいくから、真剣に考えるだけ時間の無駄とも言える。平凡な自分に宮小路の考えるプランを予測することなど到底不可能だ。流されやすい性格が招いた結果だとも言えるし、一度大波に拐われた以上、宮小路の逆鱗に触れないように気を配ろうと腹を括る。
「永井くん。今月中に必ず昨日の代休取ってね。無理はいけないよ。」
「……はい。」
「なんだかワクワクするねぇ。こんな大仕事、永井くんじゃないと取ってこられないよ。あの宮小路グループの仕事なんてねぇ。」
「……。」
『アクアリウム』に通い始めて七年越しに引き寄せた運だと言えなくもないが、いらないオマケまで付いてきてしまった。間違えなく人生で一番の可能性と失敗が同時にやってきた。凡人には美味い汁だけ吸うことは許されないということだろう。
「井伊さん。今日、打ち合わせの後、直帰してもいいですか?」
「もちろん。早く終わるようなら、しっかり休んで。先週からぶっ通しじゃ倒れちゃうだろう?」
「……ありがとうございます。」
井伊夫妻に期待を抱かせてしまった以上、今回の仕事を投げ出すわけにもいかない。けれどどうにか気持ちの整理をつけて挑まないと、途中で心折れてしまいそうだ。
見積書やサンプル、手帳などの仕事道具を鞄に詰め込んで、違和感に気付く。入れておいたはずのクリストキントの置物がない。確かに展示会場で鞄の中に入れたはずだったが、昨夜から今朝にかけて起きたハプニングに気を取られて、すっかり忘れていた。
「やっぱり、ない……」
「どうしたの?」
「あ……いえ……」
高価なものではない。他の人から見たら、安物の置物だ。しかし永井にとっては父から受け取った数少ない形見の一つで、思い出が詰まっている。展示会で披露したコーディネートに強く思い入れがあったのも、バイヤーの反応に落胆したのも、父の面影を重ねていたからこそだった。
悪い事は重なるものだ。探している時間もなければ、落とした場所の見当もつかない。遅めの昼へ出て、そのまま宮小路の事務所へ向かわねばならない時刻も迫っていた。
「……行ってきます。」
「うん。いってらっしゃい。」
井伊夫妻の明るい声に送り出してもらったものの、永井は完全に意気消沈して井伊工房を出た。
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朝霧とおる