フランス料理店、フリュイ・ルージュの店内に足を踏み入れると、ウェイターたちが流れるような身のこなしで動き回る姿が目に飛び込んでくる。運転をしてくれた鎌田も同席するのかと思いきや、後ろに彼の姿はなく、宮小路と二人きりで食事をしなければならないらしい。
洗練された空気に緊張してきて、生きた心地がしない。広く煌びやかな店内にも萎縮していると、通されたのは個室だった。そして思いのほかこじんまりとした落ち着きのある照明具合に安堵する。他人の目を気にしなくていいというのも、永井の気分を幾分楽にしてくれた。
「永井さん、苦手なものはありますか?」
「いいえ。」
「ワインはお好きですか?」
「はい。詳しくはありませんが……」
お任せくださいと言われてしまえば頷くよりほかない。実のところ酒に強くはないが、良質なものであれば悪酔いはしないだろうと深く考えるのはやめた。
ずらりと並んだナイフやフォーク、スプーンを前に顔が引き攣る。見よう見まねでやるしかないが、どんなに美味しくても肩が凝るだろう。しかしそんな風に憂慮していたのは初めだけで、乾杯のシャンパンに舌鼓をうっていたら、理性が緩むのはあっという間だった。
安い酒とはわけが違い、冷やされたアルコールがきめ細やかな泡を弾けさせて、スルスルと喉を通る。
「永井さんは、何年この業界にいらっしゃるのですか?」
ダイレクトに年齢を聞かないのがスマートだと好感を持つ。三十を過ぎても若く見られる事が少なくないので、貫禄のなさに永井は劣等感があるのだ。
「今年で七年経ちました。毎年展示会には足を運んでいたのですが、工房からの出展は初めてです。」
少しばかりこちらが先輩ですね、と目を細めて宮小路が微笑んでくる。その眼差しは妙に破壊力があってドキドキとしてしまう。
「そうでしたか。こんなに目を惹く方がいらっしゃれば気付かないはずはないので、私の目が節穴だったわけではないとわかってホッとしています。」
「……。」
この男の方がよっぽど人目を惹くはずだし、そこまで自分を買ってくれる意味が、やはりどうしてもわからない。
しかし空きっ腹に流し込んだシャンパンは早速酔いを呼んで、永井を骨抜きにしていく。前菜から好物の海老が現れたものだから、鬱屈した気分にもならなかった。住む世界が違う人間の褒め言葉を、永井の常識で計る必要はないだろう。
会計をどうするつもりなのか聞きそびれていたが、大仕事の後、自分では絶対に選ばない店でたまの贅沢を楽しむくらい許されてもいい。宮小路にとっては些細な事だろうから、機嫌の良さそうな彼に、今そんな話を投げるのは無粋だろう。ウェイターも長居をせずに下がっていくので、当初より緊張も解れ、思ったより食事も楽しめそうだった。
「永井さんが私を訝しんでいるのは承知の上で申し上げますが、今年、井伊工房さんが出展してくださって良かったです。仕事の突破口が見えてきました。」
「訝しんでいるだなんてことは……」
「いいえ。最初にお会いしたカフェで、突然スカウトしてしまいましたからね。どうしてもあなたとお近付きになりたくて、声を掛けてしまいました。」
「そう、でした、か……」
「私は直感を信じています。この方と仕事をしたらきっと楽しいに違いないと思うと、居ても立っても居られなくなります。ぼーっとしていたら、他の誰かに盗られかねませんから。」
やはり大企業の御曹司ともなると、永井とは到底交わらない次元で生きているなと感じてしまう。自分の直感なんて、怖くて信じられないし、責任も負いきれない。この男のように躊躇いもなく自信に満ちた眼差しで声を掛けることなど到底無理だ。
感嘆の眼差しで見つめていると、一瞬視界が揺らぐ。
少しハイペースに飲み過ぎたかもしれない。魚料理に合わせた白ワインに少しだけ口を付けてグラスを置く。何の抵抗もなく喉を通っていくので、度数が高いであろうことに考えが至っていなかった。
「ここはデザートが美味しいんですよ。」
車の中で概ね話し終えてしまったから、余計に気が抜けていた。緊張で少し寝不足だったことも祟っているだろう。
小さなふんわりとした焼き菓子と、ココアより濃い茶色の液体がグラスに注がれ、甘い香りにふわふわと浮遊感は増す。
「シュケットとショコラ・ショーです。この店の一押しですよ。要はシュークリームとチョコレートドリンクです。」
こんな洒落たものは自分に似合わない気がしたが、口に招き入れればたちまち虜になる。甘さ控えめで濃厚なチョコレートは飲み干すのがもったいなくて、少しずつ口へ運んだ。
味わっていると酩酊感は増し、目の前に座る宮小路が何やら慌てたように永井の方へ声を発する。しかしその意味を汲み取ることは叶わないまま、永井はなんだか幸せな気分で意識を手放した。
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朝霧とおる