病院へ辿り着くまでの道程を全く覚えていない。電車に乗って実家へ戻り、母の服と必要そうなものを掻き集めて、とにかく紳助に促されるままタクシーに乗せられ、いつの間にか着いていた。
自分の身近な人間が倒れるということを想像したことがなかった。唐突にやってき報せに真っ白になって、状況が上手く呑み込めない。
母はここへ運ばれてきた時、意識がなかったらしい。電話口で聞いた父の声は酷く慌てていて、とても今まで母を傷付けてきた人のものとは思えなかった。
病室へ入った時、母の目は閉じていたけれど、人の気配を感じたのか、すぐにその瞼は開いた。紳助は頑として病室へは来ようとせず、ロビーで見送られてここまで来た。
「・・・恵一?」
「うん・・・。」
母に名を呼ばれた事が久しぶりな気がした。現にもう一年以上会っていなかったのだから、そう思うのも当然だった。
何と声を掛けたら良いのかわからなくて、やつれた顔をした母を見る。こんなに小さく、弱々しい人だったっけ、と思い返してみるけれど、それも上手くできなかった。
「あんたに、連絡行ってたのね。」
「・・・うん。父さんが・・・」
「・・・。」
「父さんが、報せてくれたよ。」
「そう・・・。」
父の影がチラつくだけで以前は激昂していたように思う。けれど今日の母はまるで興味がなさそうだった。
「死ねたら良かったんだけどね・・・。」
真っ直ぐこちらを見たまま、淡々と他人事のように言われて、息をするのさえ憚られるほど空気が冷たくなったように思えた。
「・・・死にたかったの?」
馬鹿みたいにおうむ返しをしても、母は視線を逸らして返事をすることはなかった。
身体は大丈夫なのか、と一番聞きたかった言葉は呑み込んだ。聞く意味もわからなくなった。
「着替えとか、置いておくね・・・。」
ここへ来るまでの母は、必ずしも自分にとって好意的に思える人ではなかった。けれど確かに自分を産んでくれた人で、決して存在の小さい人ではないのだ。
今までどうにかギリギリの均衡を保っていたものが、目の前で音もなく崩れ去っていく。ちょっとした反抗期の延長のような感覚で、こんな拒絶を覚悟していなくて。素直に受け入れられない人でも、特別であることには変わりなかった。
けれど母にとって自分は、幸せの証ではなかった。そう突き付けられている気がして、もうこの二人きりの空間に耐えられるだけの気力はなかった。
「何かあったら、呼んで。帰る、ね・・・。」
窓の方を向いたまま、結局こちらを見てくれることはなかった。
男女としての両親の愛は信じていなくても、母の愛は何をしても永遠なんだと、どこか当然のように思っていたのだ。
正月、帰らなかったのは自分だし、母を一人きりにした。元々上手くいっていなかった親子関係がそこで事切れても、何の不思議もない。
自分の認識が甘かっただけ。許されるだろうと、どこかで思っていた。
廊下を歩く足が段々早くなる。ここを出て、外の空気を吸いたい。もう何が苦しいのかもよくわからない。
何もかも中途半端に置き去りにしてきた罰だと思う。
勢いのまま病院の外へ出ようと思ったら、急に背後から腕を強く引かれる。
「ッ!?」
急な衝撃に頭が真っ白になる。振り向いて見上げたら、紳助だった。
そうだ。何をしたら良いのかわからずモタモタしていた自分をここへ連れてきてくれたのは彼だった。
「恵一」
「・・・。」
「帰るのか?」
「・・・う、ん・・・。」
「じゃあ、帰るか。」
すっかり彼の事を忘れてロビーを通り過ぎたのに、驚いた風でもなく普段と変わらない様子で淡々と告げてくる紳助に、暴走しかけていた思考が急停止する。
「帰ろう。」
呆然と見上げたら、もう一度宥めるような声で紳助が言葉を掛けてくる。
恵一はそんな紳助に小さく頷いて、先に歩き始めた彼の背中を追った。
いつも閲覧いただきまして、ありがとうございます。
にほんブログ村
B L ♂ U N I O N
Twitter
@AsagiriToru
朝霧とおる