アパートの階段を上るのも、部屋のドアに鍵を差し込むのも、緊張して息が詰まりそうだった。しかしいざドアノブを捻って部屋に入ってみると、意外に冷静な気持ちで駿の姿を目の中に映した。
「裕二、帰ってきたの?」
「・・・うん。」
駿を見れば、胸が締め付けられるのはどうする事もできない。だって十年以上、好きだったのだ。
付き合っているようで、ずっと片思いも同然だった恋。でも飯塚のくれる優しい言葉と好意が心と身体に沁みて、ようやくこの恋を終わらせる踏ん切りがついた。
相手の愛情を疑いながら付き合う恋は、誰のためにもならない。最初から間違っていたのだから、もういい加減終わりにしなければいけない。駿の言動に深く傷つくことになっても、飯塚は受け止めてくれると言うのだから。
飯塚の言葉は不思議と信じられる。真っすぐ向けてくれる好意は甘くてむせそうだけど、その温かさを知った瞬間から、自分の中で飯塚を疑う心は自然と消滅した。
想い続けて、追い掛け続ける恋もあると思う。でも、自分はそれを望んでいない。与えて、与えられて、信じ合える関係がほしい。激情ではなく、安心できる場所がほしい。だから、ちゃんと駿にさよならを言おう。
「駿」
「ん?」
「駿のこと、ずっと好きだった。」
「裕二?」
振り回されるばかりで、駿を困らせるのは初めてかもしれない。自分たちの関係は、ずっと駿が主導権を握っていた。最後くらい、彼の心を掻き乱しても罰は当たらないと思う。
「でも、今日で終わりにする。」
「・・・そっか。」
ずっと言いたくて、呑み込んできた言葉。
駿は驚いたように目を見開いたものの、大友になぜかと問うことはなかった。
「ここ、引き払うから・・・鍵、返して。」
駿との思い出が詰まり過ぎたこの部屋には、どのみちいられない。悶々と駿のことを考えて息を詰まらせるよりは、心機一転、環境を変えた方がいいだろう。
差し出した手に、駿が鍵を乗せる。鍵に付けられたキーホルダーは、学生時代に鍵を渡した時の物で、鈴の側面はすっかり塗装が剥げている。それだけの年月が二人の間に流れたという証だ。
「もう、駿には会わない。」
「同窓会でも?」
「駿、一度も来たことないじゃん。」
二人で顔を見合わせて笑う。駿と目を合わせて笑うのは、本当に久しぶりな気がした。もう彼を近くに感じない。今でも好きな気持ちは残っているけど、不思議と彼の腕に抱き締められたいとは思わなかった。もっと優しい腕を知っている。だからもう、駿の腕は自分には必要ない。
「駿は・・・ううん。やっぱり、いいや。」
この長い間、駿は自分のことをどう思っていたのだろう。知りたいような、知りたくないような。しかし駿は大友の言いたいことを察したらしく、その答えを知ることになる。
「好きだったよ。弟みたいに思ってた。裕二が俺に憧れてたの知ってたから、一緒にいると気分良かったんだ。」
仲間内でも飛び抜けて才能があって、彼の持つ世界観に惹かれていた。カメラマンとして成功しているのは、その才能が本物だった証だろう。
十年以上も付き合ったり別れたりを繰り返して、初めて駿の気持ちを知った。今ならわかる。駿と自分の気持ちがすれ違い続けたのは当然だ。恋慕と優越感。それを良し悪しで語るつもりはない。それぞれが抱いている気持ちは、最初から交わっていなかった。ようやく正すことができて、悲しさより安堵の気持ちが勝っている。
聞けて良かった。駿への想いを終わりにすることができる。本心から、そう思った。
「裕二、いつ引っ越すの?」
「まだ、決めてない。」
「全部、捨てていいよ。裕二に押し付けたい物はないから。」
思い出を捨てられるのかと試されているような気もしたが、面倒見のいい飯塚を巻き込んで欠片も残さず捨て去ってやると心の中で意気込む。
「裕二。俺の勝手で振り回してゴメン。」
「ホントだよ。」
「おまえさ、構うと可愛いんだもん。犬みたいで。」
「犬、か・・・。」
「たまに裕二の顔見られるとホッとすんだよね。」
本当に最後まで勝手なことを言ってくれる。どんな想いで曖昧な関係を受け入れ続けてきたと思っているのだ。でも駿が苦笑いをするのは、自分の勝手を自覚しているからだろう。自覚していても直す気はない。だから、やっぱり並んで歩くべきじゃないのだ。
「昨日、裕二の電話に出たのは新しい彼氏?」
「・・・なる、予定。」
「良かったじゃん。俺のこと追っ掛けるより、裕二は大事にされる方が合ってる。結構甘えん坊だから、おまえ。」
そんな風に分析されていたのかと思うと恥ずかしい。けれど意外に的を得ている指摘に、少し胸が熱くなる。ちっとも相手にされていないとばかり思っていたから、駿の言葉が胸を打ったのだ。
駿とやり直したいとは思わない。彼を待ち続けて苦しい思いをするのは変わらないはずだから。ただ、人として嫌いにならずに済みそうだった。だから彼の本音を聞くことができて良かった。時が経てば、たまに会って笑い合える友人にはなれるかもしれない。
「裕二、仕事頑張れ。」
傷付けられた相手に励まされている現実が笑える。しかし不思議と憤りや憎しみの感情が湧いてくることはない。支えてもらった過去が確かにある。そして自分はそれ以上価値のあるものを駿に返せなかった。均衡の取れない関係は、いずれ崩れてしまう。
「駿も・・・写真、応援してる。」
彼が出した写真集くらいは手元に残しておいてもいいかもしれない。好きな気持ちとは別に、彼の撮る世界は純粋に好きだし、熱心にのめり込む姿は今も憧れているから。
「あぁ、ついに閉め出されたな。」
「自業自得。」
「年末年始って、どこも泊まるの高いんだよ。」
「野宿でもすれば。」
「おまえのさ、そういう意外に口が悪いところ、好きだった。」
「へぇ、初耳。」
自分の気持ちに向き合えば、別れ話でもこんなにすっきりするものなのかと思う。素直になる大切さを知ったという意味では、この恋も無駄ではなかったかもしれない。そして何より、駿に含むところなく笑えている自分に驚く。
駿をトランクごと玄関に追い立てる。軽いノリで別れのキスを迫ってきた駿に蹴りをお見舞いして、大友はようやくこの恋に終止符を打った。
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