好意を向けてきながら、腕に抱くまま本当に何もせず眠った男は、たぶん飯塚以外にいない。同じベッドへ入ってから、本当に何もする気がないと納得するまで、さほど時間は必要なかった。
髪を梳いていく飯塚の手が心地良くて、自然と睡魔はやってきた。そして気付いた時には朝だったから、一瞬何が起きたのかわからず、息をするのも忘れるくらい驚いた。駿がいなくなって以降、こんなにぐっすりと寝たのは久しぶりで。すっきり目覚めて鏡を覗き込むと、目の下のクマも綺麗に取れていた。
気分もいい。ここ最近で一番の朝だ。やはり眠れないというのは身体だけでなく心も疲弊させてしまう。ちゃんとご飯を食べ、部屋の空気を入れ替えて簡単でいいから掃除くらいしようかなと前向きな自分になれる。
「おはよう。ぐっすり寝てたね。気分はどう?」
もうすでに身支度を終え、キッチンで調理に励む飯塚に頷く。体調や心の具合を逐一気にしてくれる飯塚に、マメな男だと感心した。しかも嬉々として面倒を見ることに精を出しているようなので、飯塚の好意を素直に受け入れる気になれるから不思議だ。
コンロの前に立つ飯塚の背後に回る。覗き込むと朝から彼はホットケーキを用意しているらしい。
「うまそう・・・。」
「もう出来るよ。待ってて。」
「あ、あのさ・・・食べたら・・・」
「うん?」
甲斐甲斐しく世話を焼かれて呆気なく帰るのも薄情な気がして、つい口ごもる。しかし大友が言い出すより前に、飯塚は察したようで頷いてみせた。
「昼には帰すって言ったのに、こっちこそゴメン。なんか構いたくてさ。ほっとけなくて。」
引き留めてくれた腕の中は温かくて、むしろ礼を言いたいくらいなのに。謝らせてしまったのは自分の落ち度だ。
「また・・・」
「うん。また、おいで。いつでも。」
「・・・うん。」
泣いて恥ずかしい姿を晒してしまったし気まずくて、結局最後までありがとうは言えなかったけれど。ほのかに甘いホットケーキでお腹を満たして、飯塚の家を出る。そしてようやく慎ましやかな生活に戻る決心をして帰路についた。
* * *
自宅アパートの部屋に明かりが灯っていることに気付いて背筋を凍らせたのは、つい先刻。逃げ出したい気持ちを抱えたまま、嫌な予感と共に階段を上って玄関のドアを開けると、明らかに自分の物ではない靴を見つける。
こんなにも絶望を植え付けた男は、あっさりと大友の部屋へ戻ってきていた。せっかく飯塚が宥めてくれた心が、駿の帰宅でいっきに掻き乱される。
玄関から一向に上がれず呆然と立ち尽くしていると、部屋から駿が欠伸をしながら現れる。
「どこ行ってたんだよ、裕二。」
「ッ・・・。」
「なかなか帰ってこないから心配しただろ。」
躊躇うことなくキスをしてきた駿を、咄嗟に拒むことはできなかった。
「突っ立ってないで、上がれば?」
笑顔でそんな事を言ってくるけど、ここはもともと大友の家だ。彼も長いこと居候していて、いつの間にか家賃まで入れてくれるようになっていたけれど、気まぐれに出ていける家。彼にとっては仮住まいでしかない。
「なんで・・・」
「ん?」
「なんで、いるんだよ。」
胸が苦しい。息が詰まって、声を絞り出すのも精一杯だった。
「なんで、って。やっぱここが一番寝心地いいからさ。年末年始に仕事ないの久しぶりだし、今年はここで過ごす。」
新しい恋人ができたと言って出て行ったくせに、その恋人はどうしたのだろう。言葉の端々から、都合のいい相手にされていることがわかったが、もうすっかりここで過ごす気の彼に言葉で先手を打たれて、どうしても突き放すことができない。
我が物顔で家の主よりも寛ぐ駿に、本当は怒りを覚えたっていいと思う。むしろそれが普通の感覚だろう。しかし長い年月を経て麻痺した頭は、容易にこの男を拒むことができないようになっている。好きか嫌いかの次元で駿の事を語ることはできない。
「いつまでいるの・・・。」
「正月の三が日過ぎたら、日本発つよ。」
部屋の片隅には見慣れたスーツケースが置かれていた。彼の必需品は全てあの中に収まっていて、それで事足りてしまう。旅慣れてフットワークの軽い彼らしい。昔は物に執着しない彼を格好良いと思っていた。今はそんな彼をどう思っているのか自分でもわからない。
駿はここに一週間も留まることなく去ってしまう。また短い幻に騙されて置き去りにされると思うと、惨めで仕方がなかった。
ノロノロとコートを脱いで洗面所へ向かう。捨てたはずの歯ブラシやシェーバーは新品の物が再び置かれていた。結局自分には、すぐに元通りにできるものしか手放せない。駿の存在を心から手放すことなど到底できないのだ。
駿の帰宅は、大友の心を真っ黒に塗り潰して思考を停止させた。
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いじめてゴメンよ、大友。。。いたぶる気満々の筆者より
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朝霧とおる