抱き締めて自分のものにしてしまえる距離。けれど自分の肩に課せられたものの重さを思えば、たった一人の友をここで失ってしまうわけにはいかなかった。
きっとこの先、何度もフェイに助けられることだろう。一時の熱に惑わされて、永遠に理解者を失うのは耐えられない。
苦悶した挙句、フェイの手を自分の胸に導き、目を瞑って深く息を吸い込んで吐き出した。
「お力になれなくて、申し訳ありません・・・」
フェイの長い睫毛がついに下を向いてしまったので、慌てて先ほどの辞退を言い直す。
「薬師の大切な守札を、私が譲り受けてしまって、バチが当たらないか心配だったのだ。」
不思議そうにフェイが見上げてきて、自分の選んだ言葉が間違えていないことを悟り、安堵する。
「そんなことはありません。これは世羅様をお守りするためのものです。」
「フェイが私を想って誂えてくれたものなのだな。」
「キィも心配しています。きっと。」
キィはフェイと共にこの部屋へやってきたあとは、いつの間にか外へと出かけてしまって姿がない。
「そうか・・・では生涯大切にするよ。」
「ずっと、ですか?」
「そうだ。」
フェイが困ったように首を傾げるので、言葉を促す。
「一巡りしたら守札は焼いて天にお返しするのです。一年見守ってくださった感謝とともに。業を焼き払うという意味もあります。」
「そうなのか。」
「また来年、必ず新しいものをお持ちいたしますよ。」
「・・・フェイ。」
「はい。」
この想いを昇華させるつもりはない。毎年、天に返していく間にすり減るほどの生半可な想いではないが、一片とも他の誰かにくれてやるつもりはないのだ。
「私はこれがいい。」
「・・・え?」
「これだけでいい。天に想いはお返しせず、ずっと死ぬまで、この守札に祈り続ける。」
「世羅様・・・」
「薬師の教えに反することを、そなたは許してくれるか?」
驚いたようにフェイが瞬きをして、やがて納得したようにふわりと微笑んだ。
この笑顔が曇らないことを、彼が遠く旅する間、ずっと祈っていよう。フェイに会えるのは年に数日。今年も生誕祭を過ぎてしまえば、きっと彼は旅支度を整え、この王都を去ってしまう。フェイが薬師の長になる時が訪れた時のみ、その生活に終止符が打たれる。けれどそれは何年先かわからない。
「世羅様のお望みのままに。」
「ありがとう、フェイ。」
想い人が誰のことかも、きっとフェイはわかっていないだろう。尋ねてくることもなかった。しかしそのおかげで道を踏み外す衝動をこらえることができたのだから皮肉なものだ。
尋ねられてしまったら、きっとその唇を塞ぎ、この腕にフェイの身体を掻き抱いていただろう。そんなことをしたら、もう自分たちは元には戻れない。清らかな心のまま育ってしまったフェイには酷なことだろう。深く嘆き患って、死を選んでしまうかもしれない。
胸に秘めているうちは、フェイを傷付けたりしない。それだけが救いだった。
* * *
世羅の生誕祭に、妃の候補として連れてこられる娘が間に合わない。宰相は酷く慌てていたが、世羅にとっては全く関心のないことだった。
どうにか会う日を先延ばしにできないか、あるいはなかったことにできないか、そればかりを考えている。
理世の代理で会議を終えた後、世羅の足は理世の病床へ向かっていた。
「兄上。お加減はいかがですか?」
「世羅、大事ない。どうした? そなたこそ顔色が悪いではないか。」
近頃、思い悩んでまともに眠れていない。王都へ刻一刻と近付いてくる娘が悪魔のように思えるのだ。世羅にとって禍のもとでしかなかった。
「世羅。最近何か深く悩んでいるように思える。そんなに宰相の連れてくる娘が気に障るのか?」
理世の声音は責めるわけでもなく、むしろ面白いものを見るような言い方だった。
「妃など、必要ではありません。」
「それは困った。」
そう言いながら品よく笑う理世に、ハッとして口を噤む。理世は病弱な上、もう長くはないとライは言っていた。きっと想う女を抱くことも叶わないだろう彼に、自分の我儘は酷い言いように映るかもしれない。
「兄上、戯言です。お忘れください・・・」
「世羅、私に気を遣うことなどない。血を分けた兄弟ではないか。そなたの悩みは私の悩み。私はこんなザマだ。そなたの悩みは、私にはとても新鮮にうつる。」
「兄上・・・」
理世が健康でさえあれば。
しかしそれが叶わない天の不合理を嘆いてしまう。
きっと理世なら、私利私欲のない、民の幸せを想うよき支配者になっただろう。臣下が望むような妃を迎え、この国を、そして王族を繁栄させただろう。
それを思うと自分の不甲斐なさにやりきれなくなる。
会議で報告された西の役人の不正。役人は処分したものの、しばらく落ち着きそうにない。この際、自ら赴き、妃から逃げる口実にしてしまおうという邪心が湧いていたことを恥じる。
「世羅、西の件はどうなった?」
心を見透かすような理世の言葉に戸惑ったものの、役人を捕え、法の裁きにかけることを伝える。
「膿は出し切ったのか?」
「彼を取り巻いていた他の役人たちの動向を今調べさせています。」
「西はまだ春にはほど遠い。寒いところだ。父上の目が行き届いていなかった事実を見過ごすわけにはいかない。民は苦しんでいる。」
「おっしゃる通りです。」
「そなたの目で臣下を見定めなさい。」
「しかし、兄上・・・」
理世は世羅に、西へ行けと言っているのだ。まさに自分が望んでいた展開に両手を挙げそうになるものの、病弱な天帝を置き去りにして王都を離れるのは些か不安になる。他に暴動が起きるような予兆はないが、絶対ないとは言い切れないのだ。
「この先十年、二十年、この国が安泰かどうか、そなたの目利きの能力を見定めることは必要だ。もしそなたにその方面が向かないとなれば、取り急ぎ誰か任せられるものを探さねば。私が天帝として民に残せるものは、それくらいしかない。」
「兄上・・・」
理世の偉大さを、また思う。清く正しい彼が、本当に健康であってくれたなら、と。
「世羅、私に最後の仕事をさせてくれ。生誕祭が明けたのち、すぐそなたは西へ。」
「・・・承知いたしました。」
「そなたの剣とまつりごとの腕を、私は一番近くで見てきた。必ず治めてきてくれると信じている。時間がない。」
「はい。」
「私だけではないぞ。」
「え?」
「そなたにも自由が許される時間は残りわずかだ。」
「・・・。」
理世は己の死期を悟っているのだろう。しかし我ら王族に、それを寂しく思う暇はない。理世は暗にそう言っているのかもしれない。
「兄上、私の力が及ぶ限り尽くして参ります。」
「そなたに嘆く暇はない。」
「・・・。」
「行って参れ。」
これはきっと、最後の激励。
跪きながら、どうか戻ってくるまで理世の命があってくれと願う。
見上げた理世の顔は世羅の知る優しい顔だった。
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朝霧とおる