文の文字を指で辿りながら愛おしい気持ちで胸がいっぱいになっている自分は、相当重症だろう。
『無事。行ク道、春香ル。』
息災か、とだけ問うた世羅への返事だ。
ムギの畑の前を通ったのだろうか。それとも草木の芽吹く様を喜んでいるのか。
互いの身の安全を期して、薬師は場所を明かしたりはしない。国鳥は遥か上空を飛ぶので、人の目で追うことは不可能だった。
たった二言。けれど通じ合っているという事実が気持ちを華やかにさせる。
この文があったおかげで、軍師への掛け合いも上手く事を運ぶことができ、世羅も明日から現場へ赴けるように取り計らってもらうことになった。
世羅が我を通すのは簡単だが、そうして現場の兵士たちを振り回し、彼らの士気を下げるようなことがあってはならない。
命令すれば誰もが跪くことを知っているからこそ、わきまえなければならないことがある。それくらいには上に立つ者としての自覚があるつもりだった。
「世羅様」
戸を叩く音を聞いて、入れと命じれば、音もなくルウイが背後に立った。
「ここへ来てから相手をしてくれる者がいなくてな。腕を鈍らせたくない。」
本物の剣ではなく、鍛えるための木刀をルウイへ投げ渡した。
兵士と薬師は戦い方が違う。基本大勢で向かう者と、一切味方がいない中で自分の命を守るために術を身に付けた者。
「手加減はいらぬ。」
「承知いたしました。」
そう言って、あっという間に間合いを詰めてきた彼はさすがというべきだろう。しかしこちらも驚かされてばかりはいられない。
互いの呼吸と木刀が宙を切っていく音しかしない張り詰めた空気。相手に不足はない。腕の鳴る立会に、世羅は無心になって汗を流した。
* * *
湯浴みで汗を流すと、肌を撫でていく夜風が心地良い。
「一緒にどうだ?」
固辞されるとわかっていても、誘わずにはいられない。身体が疲労を訴えているところに酒を流し込むのは最高に気分がいい。
「お付き合いできず申し訳ありません、世羅様。」
薬師は絶対に酒を飲まない。常に備え、万全の態勢でいることを彼らは叩き込まれているからだ。
フェイが王宮へ来た幾度目かの春。強引に誘って飲ませたら、許されないことをしたと青ざめ、泣かせてしまった。まだ彼が十二、三の頃だ。
自分が飲ませたのだから怒らないでやってくれとフェイの師匠に懇願したが、その後どうなったのかはわからない。断り切れなかった自分が悪いのだと、落ち込んでいたフェイの姿を憶えている。
「そなたも例に漏れず、剣豪だな。」
「恐れ入ります。」
「毎晩付き合ってくれると嬉しいのだが。」
「私でお役に立てるのなら、いつでも。」
ルウイはやはり根っからの臣下だなと思う。薬師として信頼は寄せていても心は寄せられない。世羅がそうであるように、この青年も同じだろう。
フェイは違う。友として心を開き、そしてある時から自分のものにしたくなった。心地良いこの怠さに酒が進んでいけば、うっかり口にしてしまうかもしれない。
「ルウイ、そなたから見て、国の様子はどうだ?」
心に描く想いから努めて話をそらし、ルウイの前ではまつりごとを任される身として振る舞うことに決めている。
「南と東は豊作で、飢えとは無縁です。しかし豊作ゆえの悩みも抱えております。」
「値が下がる。それに腐らせてしまうな。」
「その通りでございます。野菜や果物は乾燥させると長期保存ができ、あらゆるところに流通させることが可能ですが、なにぶん味が・・・」
「そうなのか。」
「それぞれに適した方法を探さねば、せっかくの収穫も残念な事態になりかねません。試行錯誤を重ねております。」
「何か必要なものはあるか?」
「いいえ。世羅様の手を煩わせるようなことはいたしません。ただ・・・」
遠慮するように言葉を詰まらせたルウイに、目で話の先を促す。
「東の方は冬から春にかけて空気が大変冷たく乾燥いたします。その気候が保存食を作るのに適しているかもしれません。ですから来年、世羅様の生誕祭を辞退させていただきたいのです。」
「そんなものは構わん。むしろ毎年催す必要すら私は感じていないくらいだ。もし長期保存できれば、民が飢える心配をせず、胸を痛めることなく私も腹を満たすことができる。何も悪いことなどない。行って参れ。」
「ありがとうございます。」
そもそも薬師にとって世羅の生誕祭はついでだ。薬師が王宮で執り行う一年に一度の会合が偶然世羅の生誕祭と近いことから、出席することが習わしとなってしまっただけで、本来薬師は出席せねばならないわけではない。薬師の本分は、旅をしながら見聞を広め、民を救うことにある。
「ルウイ、そなたも身体を休ませるがよい。下がって良いぞ。」
「おやすみなさいませ、世羅様。」
常に緊張感のある面持ちをされると、こちらも身構えてしまう。何もかもフェイといる時とは違う、などと比べてしまうのはあまり褒められたことではないだろう。
「フェイ・・・」
虚空に向かって呼んでみる。今宵の気分が良いのは、あの文のおかげだ。初めてフェイに書いた文。それに返事があったことで、舞い上がってしまっている。
酒の入ったグラスを置き、文箱を開けて取り出す。間違えなくフェイの字だ。王宮に残してきている彼の文を何度も見返して、知り尽くしている字の癖。
愛の言葉を囁きたくなるくらいには浮かれている。
もういっそ、キィになれたらいいのに。死ぬまで寄り添う薬師と国鳥。フェイがキィを大層可愛がり信頼を寄せていることを知っているだけに、嫉妬心も芽生える。
「あぁ、少し酔ったな・・・」
せめて嫉妬するなら人間にとどめたい。これから天帝にまで上りつめようとしている自分のあまりの滑稽さに笑うしかなかった。
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朝霧とおる