空気が気管支を行き来する音が両耳から伝って頭に響く。目を瞑り、微かな異変も聞き逃すまいと集中するこの瞬間が、堪らなく好きだと思う。
「だいぶ落ち着いたようですね。夜寝る時、息苦しくなったりしませんか?」
耳から聴診器を外して患者に向かう。
「大丈夫です。」
「睡眠はきっちり取れていますか?」
対面した患者は少し考えるような仕草をして、満足そうに頷いた。
「この数日は楽になって、ぐっすり寝られるようになりました。」
「そうですか。」
患者に頷き返して、カルテにその旨を書き取る。次にパソコンで前回の薬歴を引っ張り出して、パソコンのディスプレイを患者へ向けた。
「まだ少し引っかかるような音がしているので、もう一息ですね。しっかりこちらの吸入を続けて下さい。あと、今回はもう咳の薬は外してしまって大丈夫ですか?」
患者がすぐに頷いたので、前回処方した薬の一覧から咳の薬を削除する。
「落ち着いてきているので、こちらのステロイドの薬もなくしましょう。合わせて飲んでいた胃薬もなくしますね。」
「はい。」
「吸入薬は咳が治まっても使い切って下さい。予防効果もありますから。きちんと、うがいも忘れないようにしてくださいね。」
「あの・・・」
薬の説明を終えようとしていた大内要(おおうちかなめ)だったが、患者の顔が一瞬曇り言い淀んだので、パソコンに向かいかけた身体を患者の方へ戻す。
「何か心配なことがありますか?」
「あの、うがいできないような場所で吸うこともあって・・・。」
患者は常に医者の望むベストな環境で薬を服用できるわけではない。特に社会人にはよくある話だ。
「そうしたら、水やお茶を飲んでいただくだけでも結構ですよ。口の中に薬剤が付着している状態が良くないというだけなので、飲んで洗い流す分には支障ありません。」
「そっか、良かった。日中、出先で吸うことがあって。それなら続けられます。」
「他にお困りの事はありますか?」
懸念事項を解消できスッキリした顔で首を横に振った患者に、要は一つ頷いて、処方箋を出力して渡した。
「症状がこのまま落ち着けば、通院は終わりにしていただいて結構ですよ。」
「はい。ありがとうございます。」
「お大事に。」
今日最後の患者が扉の向こう側へと姿を消したのを見届けて、要はようやく息をついた。
大抵の人たちには過ごしやすい秋という季節は、朝夕と日中の寒暖差が大きい。喘息患者には難しい季節で、要の所属する呼吸器科の外来は、この季節、長蛇の列ができる。
要は最後の患者の手書きカルテをパソコンにそのまま入力していき、ザッと見渡したところで更新して画面を閉じた。
医師の中には患者の方を見ずパソコンに向かって話し続ける人もいるが、要はそのスタイルが好きではない。どうしても入力に気を取られて、患者の訴えたいことを見逃しかねないと思うからだ。直接目を合わせていれば、患者のサインを拾いやすい。大学病院は一人ひとりに時間をそう多く割けないからこそ、患者のためになる診察をしたかった。
カルテ代わりにしているノートは一日で使い切ってしまうこともある。一ヶ月だけ保管してもらい、後はシュレッダー処分していた。面倒なことをやっているな、と若い先生方からはよく言われてしまうが、自分のスタイルを当分変えるつもりはない。今はこの方法が患者と向き合うベストだと思うからだ。
「大内先生、お疲れ様です。」
「お疲れ様です。」
「今日このあとご予定がなければ、みんなでご飯食べに行きませんか?」
そう誘われて、行った先が合コンだったということが一度あったので、それ以後誘いは断り続けている。
「すみません。先約があるので、今日は失礼します。」
「もし良かったらご都合の良い日を教えていただけませんか? 次回は先生に合わせますよ。」
間違えなく合コンの誘いだと確信して、丁重に断ることにした。
「申し訳ないのですが仕事とプライベートは分けたいので。そういうお誘いは私抜きで構いません。病院の新年会や忘年会だけ参加させてもらいます。」
同性にしか興味のない自分。女性看護師たちの誘いは自分にとって厄介事でしかないので、隙を与えるつもりはない。
「みなさんで楽しんできてください。」
「そうですか・・・」
「お疲れ様です。」
「お疲れ様です・・・」
縋るような目で見られても何も思わない。鬱陶しくさえ感じる自分は、冷たいのかもしれない。しかし不本意なことで時間と神経をすり減らすのは、三十を過ぎたいい大人がやることではないだろう。限られた時間は大切な人のために使いたい。
スマートフォンを取り出すと、すでに彼から仕事終了を告げるメールが入っていた。さほど時間は経っていない。部屋に帰り着くのはほぼ同時だろう。
大学卒業と共に暮らし始めた彼。自分よりもずっと歳は上で、一緒にいると何より心が落ち着いた。些細なことでやさぐれた心を溶かしてくれる。リセットされた自分は、翌日心健やかに働きに出て行ける。
彼にメールの返信をしただけで心が凪いでいく自分を感じる。生活の中心はあくまで仕事だけれど、自分から彼を取ってしまったら、心にぽっかりと穴が空いてしまう。
今日は二人でご飯を作りたい。その旨をメールすると、すぐに了承のメールが返ってきた。
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朝霧とおる
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