母が動物嫌いだったことと、ペット禁止のマンション暮らしの所為で、結弦は生き物と無縁な暮らしをしていた。両親が離婚をして仕事に忙しない父と二人で暮らすようになってからは、余計に欲しいと強請ることができなくなった。
だから結弦にとって図鑑にある世界が全てで、若干物足りなさを感じつつも、そんなものだと思っていた。
隣りに暮らしていた涼介は二つ年上で、自分とは違いとても社交的な性格だ。外で草花を愛でる楽しさを教えてくれたのも彼で、親が不在である日中もよく外へ連れ出してくれた。
新しいことにおっかなびっくりだったのは、それこそ幼少期だけで、二人で日が暮れるまで走り回った。いつからかそれをしなくなり、本の世界へ閉じこもるようになってからも、二人一緒に過ごす関係に特段の変化はなかった。
高校時代までの涼介に恋人がいたかどうか、自分は全く知らない。しかし放課後のほとんどを結弦と過ごしていたことを考えると、いなかったと考えるのが自然かもしれない。
涼介はなんでも器用で、父の帰りが遅い自分たちのために中学へ入った頃から夕飯を作ってくれるようになった。それは涼介が大学進学と共に実家を離れるまで続けられ、彼がいなくなった後は、随分と夕飯の時間が寂しく感じられたものだ。
結弦も簡単なものは作ることができる。それは必要に迫られてやらざるを得なかったからだ。しかし涼介が教えてくれた通りに作っても一人で食べる夕飯はとても味気なくて食欲も湧かない。
だから結弦の大学進学を機に再び涼介と夕飯を共にできることを期待したのだが、昨日の涼介の反応を見る限り、結弦の願いが聞き届けられるかどうかは微妙なところだった。
一緒に暮らすのもダメ。ご飯もダメなら、近くにいることがかえって虚しく感じられる。
この春から進学する農学部。せっかく学びたいことを勉強しに行けるのに、浮かれていた心が急速に萎んでいく。
嫌われてしまったんだろうか。それとも手のかかる幼馴染から卒業したくなったんだろうか。
昨夜もあまり目を合わせてくれなかった。そのことが悲しくて、胸がじくじくと締め付けられる。昨夜押し掛けたのは、どう考えてみても失敗だったのだ。歓迎されたと考えるには遠い反応だった。
スマートフォンがメッセージの着信を告げたので、愛用の図鑑から目を離して手に取る。結弦に連絡を寄越してくるのは涼介しか心当たりがない。父や友人たちは滅多なことで結弦に連絡はしてこない。結弦が面倒がって返信をしないことを彼らは知っているからだ。
《電話する?》
たった一言。それでも涼介がくれる言葉だけは昔から嬉しい。そういえば彼に返信することだけは億劫だと思ったことがなかった。
メッセージには返信せず、すぐに無料通話アプリを立ち上げる。離れていた二年の間に数回利用しただけのアプリはアイコンも変わっていた。機能も様変わりしていて、わからない機能に手が触れないように気を付けながら通話ボタンを押す。
『結弦?』
「うん。」
『家には無事帰ったの?』
「うん。」
自分のことをいくつだと思っているのだろう。高校生にもなって片道一時間の道を戻れないほど子どもではないのに。昨夜から続く腑に落ちない心の中のモヤモヤをぶつけるように、胸の内で抗議する。
『引っ越しの日、バイト、休み貰ったんだ。手伝うよ。』
「・・・ありがとう。」
見捨てられたような気分になっていたから、思わぬ申し出に嬉しくなる。それになんだか結弦のために休んだという口ぶりだったから、余計に結弦を喜ばせた。自分はとても単純な生き物らしい。
『買い物も手伝うよ。日用品とか、結構、大荷物になっちゃうだろう?』
「うん。」
『自炊はするのか?』
「・・・。」
やっぱり涼介には一緒に食べるという選択肢はないのだなと思い、また気持ちが急速に萎んでいく。
『結弦?』
「・・・一緒に食べたい。」
嫌がられるのを覚悟で食い下がってみる。すると断りの理由は別にあった。
『そうかぁ・・・。俺、バイト先の喫茶店で食べさせてもらっちゃうからさ、平日はほとんど作ってないんだ。』
昨夜、涼介が家で食べていなかったのはそのためだったのだ。おかげで結弦自身は食べ損ねていた。
『結弦はバイトするの?』
「うん。」
今することに決めた。
『何のバイトするの?』
「涼介と同じところがいい。」
『え?』
「同じところ。」
涼介がバイト先で食べるというなら、同じところで働けばいいという単純な考えだったが、涼介には反対されるだろうと思った。社交的ではない自分に果たして接客業が向くかどうかという根本的な問題もある。
しかし意外にも涼介は反対せず、オーナーに聞いてみるとまで申し出てくれる。
『俺も気に入ってるところだけど、きっと結弦も気に入るよ。紅茶、好きだろ?』
「うん。」
『天野さんの淹れる紅茶、本当に美味しいから。引っ越しの日に会ってみる?』
「うん、いいの?」
『天野さんに話しておくよ。』
「涼介」
『うん?』
「ありがとう。」
『どういたしまして。』
昨夜のよそよそしい彼が嘘のように、優しく懐かしいままの涼介だった。もしかしたら、昨日はバイトの帰りだったし、疲れていたのかもしれない。そんなところに押しかけて心配させたものだからそっけなかったのかも。
幾分願望も含まれていたが、そんな風に言い聞かせると、結弦は不思議と納得できた。自己満足しながら電話口で黙っていると、電話の向こうで涼介がフフッと笑う。それがとても人間らしい温かみのあるものに思えて胸がほっこりとする。
『結弦』
「うん。」
『電話してるのに黙ってても仕方ないだろう?』
「うん・・・。」
結弦を咎めながらも、その口調はどこまでも穏やかで、本気で咎めようとしているわけではないことがわかる。
『昨日はちょっと疲れてイライラしてたんだ。ごめんね。』
「ううん。」
『明日も電話する?』
「うん。」
『わかった。じゃあ、今日はおやすみしようか。』
「・・・。」
話題を提供してくれと言われても困ってしまう。けれど通話を切ってしまうのは名残り惜しくて押し黙る。
『切りたくないの?』
「うん。」
もうちょっと涼介の声を聴いていたいと思った。別に話す内容はなんだって構わないのだ。
『そうだなぁ・・・二人で行きたいところ、ある?』
「二人で、行きたいところ・・・。」
『そう。全然ない?』
「ある。」
なかなかできなかった遠出をして、生き物の観察をしたい。父が忙しかったから水族館や動物園にもほとんど行ったことがない。少し子どもっぽいだろうかと思ったが正直に申し出てみた。
『いいよ。一緒に行こう。どこがいいか、考えておいて。』
「明日まで?」
『明日じゃなくてもいいよ。』
涼介が楽しげに電話口で笑う。それが嬉しくて結弦はようやく涼介を電話から解放する気になった。
「おやすみ。」
『うん、おやすみ。』
涼介は自分に怒っているわけではなかった。大丈夫、自分たちは今までとなんら変わりがない。安心して通話を切り、ズレていた布団を手繰り寄せる。喉につかえていたものが全て取れて、すっきりする。明日から、また何の憂いもない日々が続く。結弦はそのことに安堵しながら、夢も見ずに深い眠りへと落ちていった。
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朝霧とおる