首を長くして待った水曜日。今日はゆっくり帰ってきてねと言付けられたが、反論せずに快く頷いた。
二人の大学の中間地点を取った場所だから、駅に着いてしまうと反対方向だ。改札口で歩に別れを告げて、それぞれ大学へ向かう。
今日という日が近付けば近付くほど、歩の不可思議な言動の意味がわかってきて、もう自分を覆っていた不機嫌さはどこかに飛んでいってしまった。
食い下がってみっともなく問い詰めたりしなくて良かった。理由を吐かせてしまったら、彼の誠実な気持ちを台無しにしてしまうところだったから。
去年の今頃、彼はまだこの日が何の日なのか知らなかった。教えていなかったから当たり前なのだが、過ぎた頃に教えたら、残念そうにしていた。
まさか張り切ってサプライズを準備していたなんて気付かなくて。
受験が終わって、めまぐるしく生活が変わっていく恋人の方につい気を取られて、すっかりそんなことが頭から抜けていた。
週末、冷蔵庫の中がはち切れそうなほど物で溢れていたけれど、夕飯作りは歩に頼っているから知らぬフリをした。おそらく、その多くを今日のために買い込んだのだろう。
大学へ向かう満員電車もこんな日はたいして気にならない。果敢に乗り越えてやろうという気力さえ湧いてくる。
大学の門をくぐると、遅咲きの桜に迎えられた。恋人の一挙一動でこんなにも舞い上がれる自分は単純だけど、思わぬ贈り物に歓喜せずにはいられない。
賢介は軽い足取りで、校舎へと向かった。
* * *
講義が終わって帰ろうとスマートフォンを見たら、のんびり帰ってきてと念押しのメールが歩から入っていた。
焦って準備しているであろう姿が思い浮かんで、寄り道をして帰ることにする。
変に気を遣って何か買って帰るよりは、いつも通り手ぶらが良いだろう。せっかくのサプライズを邪魔したくない。
大学の図書館で工学の本を手に取り、そのまま貸出カウンターへ行きかけて、別の棚へ足を向ける。
賢介の通う大学にも建築学科がある。その手の本も豊富にあるはずだと思い至ったのだ。
堅苦しい本が並ぶ中で、一冊めぼしい本を見つける。手に取ってめくり、これなら歩も喜んで見てくれるだろうと、ようやく貸出カウンターへ向かった。
空いている電車の中で、歩のために借りてきた本をめくる。通勤ラッシュに当たらないギリギリの時刻。車内は立っている人もまばらだ。
日本の伝統的な建築様式が細かく分類され、それぞれに代表的な建造物の写真が充てられている。別に建築学に興味がなかったとしても、グラフィカルな面で楽しめる本だった。
歩の興味があるものは、少しずつ自分も知っていきたい。二人並んで語り合える日がきたら楽しいし、恋人の好きなものにはアンテナを張っていたい。
興味の的を絞る必要はないと思う。視野を広げていけば、きっといつか自分のためにもなるのだ。自分からあえて視界を狭めてしまうのはつまらない。
最寄駅に着いて降り立つと、いよいよ迫ってきた二人の城に胸が躍る。口元が緩むのを必死に堪えて、どうにか怪しい人にならずにアパートの部屋の前に立った。
わざと大袈裟に足音を立てて階段と廊下を歩いたから、きっと帰宅に気付いただろう。一息置いて鍵を差し込む。
「ただいま・・・うわッ」
入った部屋は真っ暗で、いきなり目の前で破裂音がする。驚いて固まっていると頭上からヒラヒラと何かが顔をかすめていった。
「お誕生日おめでとう!」
「歩・・・」
急にあかりがついて視界が開けると、目の前に満面の笑みで歩が立っていた。
彼のサプライズに気付いていた。けれどここまで周到にやるとは思っていなくて、呆気にとられる。
「ビックリした?」
弾む声に頷いて、二人で声を上げて笑う。
「音がすごいね。心臓、止まるかと思った。」
「でしょ?」
後ろ手でしっかりドアを施錠した途端、手を引かれて部屋へ通される。
「ねぇ、見て! いっぱい食べてね。」
「すごい・・・」
並べられた料理に感嘆の声をあげると、嬉しそうに歩が笑う。無邪気過ぎる顔に射抜かれたのは言うまでもない。
いつから部屋を真っ暗にして待ち構えていたのだろう。想像するだけでも頬が緩んでしまう。
気付いていても、嬉しいものだなとしみじみ思う。
「歩、ありがとう。」
「賢介、大人になっちゃったんだね。」
「なっちゃったよ。」
「お酒用意しようと思ったんだけど、レジの年齢確認でダメだって言われちゃって・・・。ゴメンね。」
「歩の気持ちが、一番嬉しいよ。」
「そう?」
「うん。」
ギュッと抱きついて頬に口付けると、歩は照れて俯いてしまう。
「食べてもいい?」
「もちろん。」
グラタンにハンバーグ、パプリカの入ったスープやイカのマリネ、サラダ、サーモンのパテ・・・。暮らし始めてから和食が多かったから、洋食のレパートリーの多さに驚く。
有難く先に箸をつけると、歩の顔がこれでもかと綻んだ。
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朝霧とおる