握っていた手が微かに反応を示したのは、夜も更けた頃。一刻も離れまいと紫苑は凛に付き添っていたが、徐々に温もりを取り戻していく愛おしい身体に、希望を持ち始めていたところだった。
「ッ……。」
「凛」
「ッ……ん、さ……。」
「凛、目を開けておくれ。」
蝋燭の火が凛の睫毛が揺れる様子を照らし出す。早くその瞳にこの身を映してくれと、先走る気持ちを止められない。
「しおん、さま……。」
「聞こえているよ、凛。どこか痛いところはあるか?」
「……いいえ。」
凛が首をゆっくりと動かして辺りの様子を不思議そうに見つめる。彼が倒れた時から随分時間が過ぎているから、蝋燭の灯りが部屋の隅々まで届かぬほど夜が更けていることに驚いたのかもしれない。
「半日以上、そなたは眠っていた。」
「そうでしたか……。紫苑様がおそばにいるなんて嬉しい。」
握っていた手に凛が頬擦りをする。公務に追われて寂しい思いをさせたと、愛おしい姿に危うく流されそうになる。しかし肝心な事を確かめねばならないと奮起して己の劣情を抑えた。
「凛。何故、このような事に。」
困ったように目を泳がせ、凛は怒らないでくれと強請るような顔で双眸を向けてくる。
「……水の記憶を辿りに。」
「水の記憶?」
「苦しみに圧倒されて、受け止めるために長い時間を要しました。」
凛の話す意味が一つとして理解できず、戸惑いながら話の先を促す。
「川が悲しみに包まれております。人々が争い、多くの血が流れて、水の使者が助けを求めているのです。」
「川とは、どこの川だ?」
凛はこの王宮から出ることがない。しかし大地が投げかけてくる声に日々耳を傾けているからか、驚くほど国の細部を知っていることがある。
「王都へ繋がる、西の大きな川です。」
「西……。」
心当たりがあるとすれば、反乱勢力の事だった。王都での登用を解かれた役人が逆恨みをし、西方の不満を結集して指揮を執っているのだ。民からの血税を吸い上げ、私腹を肥やしていた者への正しい処罰であったはずが、王都から兵を出して鎮圧せねばならない騒ぎにまでなってしまった。
血生臭いことは凛の耳には入れない。しかし思わぬ形で凛は知る術を持っていることに驚く。都合の悪い事を隠そうとした己の薄汚れた心を暴かれたようで、紫苑は凛の瞳から目を逸らす。
「紫苑様は、私が子どもだと思っておいででしょう?」
「……そんな事はない。」
「いいえ。民が苦しんでいる事を、教えてはくださらなかった。」
痛いくらいの視線が紫苑を突き刺す。曇りなきまなこは、時に一切の妥協を許してくれない。少なくとも、紫苑のささやかな願いを切り裂く威力はあるのだ。
凛を危険な目に会わせたくない。叶う事ならその瞳に汚らわしい世界を何一つ見せたくないのだ。だから愚かであると罵られても、凛を俗世から切り離したい。
「凛、約束しておくれ。もうこんな危ない真似はしないと。」
手を取って訴えると、凛の瞳は悲しそうに揺れた。
「……お約束、できません。」
「なぜ。」
「真実を知ることは、私の大事な務めにございます。」
「凛」
「この務めを取り上げられたら、私の存在意義はなくなってしまいます。」
言葉を知らないうちは、外へ出たがることもなかった。しかしどんなに俗世への道を断ち切ろうとしても叶わなかったのは、彼が星の子であったが故だ。
世界の広さと己の果たすべき役割を凛が先代に諭されたのは、無邪気に庭を転げ回っている時分。幼い頃から世界を見てきた彼は、紫苑が思う以上に現実に根を下ろして生きているのだろう。しかしそれを認めることは紫苑にとって容易いことではない。
「ずっとおそばを離れないと約束いたします。」
「……必ずだぞ。」
「ですから、私にこの世界の真実をお教えください。民のためにこの力を使わないのなら、紫苑様は王に相応しくありません。」
「凛……。」
「私の目を塞ぐというのでしたら、私は紫苑様のおそばを離れます。」
「そんな事はさせない。絶対に許さぬ。」
「紫苑様は我儘を仰っています。本当はわかっておいででしょう?」
もう誤魔化せない。凛は幼くない。けれどずっとこの腕の中であやしていたかった。紫苑が抱えていた、理想と現実の軋轢。小さかったはずの綻びはいつの間にか大きな溝となって、知らぬ存ぜぬを通せなくなっていた。
閉じ込めておきたい。しかし民は星の宮の力を欲し、凛自身も己の務めを全うしようと高い志を持つ。
王宮にあった桃源郷は幻だった。夢から醒めれば、凛は紫苑だけのものではなくなる。あともう少しだけと他でもない凛の身に願っていたというのに、殻を破ったのは凛自身だった。
「凛、今宵だけ……。」
「紫苑様?」
「最後にもう一度だけ、そなたを私だけのものにしたい。」
紫苑の言葉に凛の瞳が不安そうに揺れる。今にも泣き出しそうな面持ち。凛の声は震えていた。
「紫苑様、もう抱き締めてくださらないのですか?」
「違うよ、凛。私の……気持ちの問題だ。抱かぬ、という意味ではないぞ?」
「ッ……。」
「手放すことは絶対にできぬ。そなたが逃げようとも、地の果てまで追い掛ける。」
安心したように微笑んだ凛を見て、彼が意外にもこの関係に依存しているのだと知る。紫苑の薄暗い心は急激に満たされていった。凛の身体に刻み込んできた溢れんばかりの想いは効力を発揮しているらしい。
抱き締めた塊がいつも通り温もりに包まれていたので、紫苑は安堵の溜息をつく。凛も紫苑に倣うように息を吐き出して、大人しく身を寄せてきた。
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朝霧とおる