「柚乃宮、駅着いたぞ。おまえ、家どっち?」
柚乃宮を自分のマンションに持ち帰る気はない。そんなことをすれば、この脆い理性は跡形も無く崩れるだろう。
柚乃宮の顔色は決して悪くない。戻す心配はなさそうだったので一安心した。ただ異様に眠そうで、足下も覚束ない。自分が誰に付き添われているのかも、わかっていなさそうだった。せめて玄関までは送り届ける必要があるだろう。
「あっち。」
そう言いながらフラフラと歩き出す。軽く肩だけ支えてやって、一応何処かを目指して歩き出したらしい彼に歩幅を合わせる。
いつだったか駅からすぐだと話していたから、なんとか着くかなと思い始めた頃、とあるマンションの前で立ち止まった。気怠げに鞄の中をゴソゴソ弄り始めたので、鍵でも探しているのだろう。
この立地、このマンションなら、結構家賃を取られるだろう。入社四年目の給料では厳しいのではないか。
鞄の中からようやく取り出した鍵は電子錠だった。ということは、下はオートロックだろう。
取り敢えず中へ促して扉を開けさせる。迷わずエレベーターに乗り込み、数字の三を押したところで、柚乃宮の膝がカクンと落ちた。すんでのところで抱え上げて顔を覗き込めば、目を瞑っていた。
「柚乃宮、後ちょっとだから寝るなよ。何号室?」
三〇二、と掠れた声が辛うじて帰ってくる。それさえも甘えられているようで嬉しくなるのだから自分も大概だろう。寄り掛かってくる重さと温もりが胸に沁みた。
結局抱え上げるようなかたちで部屋まで連れて行き、柚乃宮の手から拝借した鍵で上下二か所を回し開けた。オートロックといい玄関の鍵といい、随分厳重だ。ほんの五年前まで築四十年のアパートに住んでいた自分とは大違いの設備だった。
柚乃宮が自力で歩く気配がないので、後手で内鍵をかける。ライトを点けて部屋を進めばリビングの隣りにベッドルームがあった。
リビングの明かりを頼りにベッドへ柚乃宮を横たえた瞬間、上着の裾に何かが触れた気がした。ゴトッと床に落ちた音がして、しゃがんで見つけたものに目を見張った。
何故こんなところに果物ナイフなどあるのだろうか。危ないなと思い明るいリビングに持ち出して更に驚いた。
「これ……。」
ナイフの切っ先に薄っすらと細く赤黒いものが付いている。どう見ても血だった。
テーブルにナイフを置いて、もしかしてと思い柚乃宮の眠るベッドルームへ引き返した。
柚乃宮は右利きだったはずだ。だからあるとすれば……。
「やっぱり……。」
柚乃宮の左腕のシャツを捲り上げて出てきたのは無数の切り傷だった。多田は指でそっと傷をなぞって柚乃宮の穏やかな寝顔を眺める。
新しいものもあれば、かさぶたになって硬くなっているもの、傷の感触はないが跡だけ残っているものもあった。
自傷、なんだろうと思う。柚乃宮が何故そんな事をするのか、多田には全く心当たりはない。普段の彼の気配から、そんなものは感じ取れなかった。
自分が見ていた柚乃宮は何だったのだろう。上っ面の良い部分だけを掬い取っていたのではないかと非難されているような気分だった。
仕舞い込んできた想いはこの時決壊してしまった。大切にしてきたつもりだったのに、そんな気になっていたのは自分だけだったのだ。柚乃宮は何かに心蝕まれ、苦しんでいたのに。
どうしてこんな事をするのか知りたかった。場合によっては、自分が今まで秘めていた想いを吐露する結果になるかもしれない。けれどそれでも教えて欲しかった。
好きな人が自分自身を傷付ける姿など見たくない。放ってなどおけない。傲慢だと、自分勝手だと言われようと、自分に助けを請うて縋って欲しい。浅はかな欲望だとわかっていても、このまま知らないふりは出来そうになかった。
帰る気はとうに失せていた。このままここへ一人残していくのは、あまりに不安だった。
見渡すとモノトーンの色調で整えられたシンプルな部屋。余計なものを削ぎ落として、乱雑に置かれたものなど何一つない。リビングにもキッチンにも全く生活感がなかった。あえて言うならあのナイフだけが柚乃宮の生を感じさせる証にも思えた。
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