「……痛い。」
車の助手席に収まって、柚乃宮が気怠げに今日何度目かの文句を垂れた。
柚乃宮を腕の中に抱き締めて一つになったら、爪の先から髪の毛一本すら残さず溶けてしまいそうだった。初めては優しくしたいと思っていたのに、いざことに及んだらそんな事を考える余裕は一ミリだって残っていなかった。結果、柚乃宮は夢うつつな顔をして好きだと言ってくれた後、寝落ちして朝まで目を覚ますことはなかった。
「機嫌直して。家でマッサージしてあげるから。」
柚乃宮が怪訝な顔をしてこちらを見てきたので、言った事を額面通りに受け取ってくれなかったことを悟った。
苦笑して一旦止めた車から降りる。立体駐車場のマイナンバーを操作パネルで呼び出す。今日は土曜日だからだろう。車で出払っている家が多いらしい。ほとんどのスペースが空になっていた。軽快な音楽が鳴って機械が動き始めると、助手席にいた柚乃宮がドアを開けて車を降りた。
「多田さん、後で話しますね。」
「進展しそう?」
「まだ何とも言えないけど、でも何とかしたいです。逃げ回ってばかりもいられないし。」
今朝はスマートフォンのアラームで目が覚めて、何故休日にアラームをセットしたのだろうと一瞬頭が回らなかった。しかし律儀にアラームのメモに《十時、ホテルロビー》と打ってあったから、起こされた理由がすぐにわかった。午前十時に柚乃宮を新垣弁護士のところへ送り届ける予定だったのだ。
気持ち良さそうに眠る柚乃宮を見るのが初めてで、起こしてしまうのが可哀想になったがそうも言っていられなかった。先方を待たせるようなことになったら申し訳ないし、柚乃宮も本気で母親との関係に悩んでいるわけだ。
柚乃宮を揺すり起こすと開口一番、腰が痛いと呟かれ、恨みがましい目で見られた。翌日に予定がある日は、今後絶対に盛らないようにしようと心に決めた。
人前で歩く時、羞恥心から距離を取って歩こうとするかもしれないと想像していたが、腰の痛さに意識を取られていてそれどころではないようだった。覚悟していた哀愁を味わうことはなかったが、柚乃宮の姿を見て若干の罪悪感をおぼえる羽目になった。
しかし家に帰ってソファに並んで腰かけようとして、柚乃宮の身体が一瞬緊張したのを多田は見落とさなかった。手を握ったら?が火照って赤くなる。可愛くて堪らなくなって、スイッチが入りそうになるのを辛うじて堪えた。
「どういう風にするか、目処は立ったの?」
からかってばかりいて臍を曲げられたくはなかったので、多田から真面目な話を振った。
「裁判とかあまり大事にはしたくないからってまずは話しました。そうしたら書面で母にこちらの要望を通知して返事を貰うことになりました。書面の内容はもう決めて、判も押してきました。」
ホテルのロビーで落ち合った後、柚乃宮と新垣弁護士はホテルの部屋で話をしたらしい。忙しくて土日しかこちらが出向けないので、今日片付けられることはやってしまおうということだった。
「実は……母がすでに新垣さんのところへ電話してきてて、会わせろって言ってきたらしいんです。だから細かいことは会って直接決めて、書面に残すことになりました。会う場所は生活圏じゃないところで、新垣さんにも立ち会ってもらいます。」
「誰かを間に挟めば大丈夫かな。というか、大丈夫だといいけど。」
柚乃宮が絡めていた手を握り直す。
「多田さんも母さんに会った時に言ってましたけど……やっぱり精神的におかしいのかな、って思います。だって常識的にあり得ないことしてて、それで堂々と会わせろって言ってくるって、普通の神経じゃない気がするし……。もう投函したので、遅くても月曜日には着くと思います。」
柚乃宮は一気に話し終えて疲れた顔を見せた。けれど懸命に多田へ微笑んでこようとするので、無理をさせているようで悲しくなる。泣きついてきたって気の済むまで慰める気でいるのに、自分の前ですら強がろうとするのが寂しい。
「柚乃宮、横になって。約束通りマッサージしてあげるから。」
柚乃宮が目を見開いて、明らかに狼狽する。
「や、休んでれば、大丈夫です。」
「やらしい事はしないから、ほら、遠慮しないで。」
半ば強引に柚乃宮をソファへうつ伏せにして腰に手を当てれば、ギャッと色気のない声が上がった。
「ツボ押しはマッサージ師の人から教えてもらって、腰に関してはわりと知ってるから安心して。」
「……習ったんですか?」
「デスクワークが多い時に肩と腰をやられて、一時世話になったんだ。セルフでも出来るツボ押しを習ったら、一ヶ月くらいで良くなった。」
一ヶ月か、と呟くから笑って否定する。
「柚乃宮の腰痛は慢性じゃなくて急性だし、原因が違うから。」
そう言ってからかったら、最低、と不満げな声が返ってきた。しかしツボを的確に押してやれば、息を吐き出して身体の力が抜けたので、どうやら観念して大人しくする気になったらしい。
多田は今日一日、可愛い柚乃宮のために献身的でいようと自分に誓った。
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