「まぁ、落ちる時は落ちますし。その時は仕方ないですよね。」
心が委縮している多田にとどめを刺すには十分過ぎる一言だった。しかし、やっぱりやめようなんて、楽しみにしている柚乃宮の顔を見ながら冗談でも言う事はできない。
「そ、そうだよな・・・。」
旅行が前日に控えた夜、スムーズに出発できるよう、柚乃宮は多田の家にスーツケースごと来ていた。
往生際が悪いのはわかっている。でも怖いものは怖い。
しかし最初の内に打ち明けなかったことが災いし、もう言い出せるタイミングは完全に逸していた。胸を躍らせてはしゃぐ彼の横で白目を剥いていたらどうしよう。気絶なんかした日には、仰天させるどころの話ではない。
「聡さん」
「・・・ん?」
先走って昇天しかけた意識が柚乃宮の声で呼び戻される。
「俺、飛行機乗るの久しぶりで・・・。」
「う、うん。」
もしかして彼と不安を分け合えるかもしれないという微かな期待。
「凄いわくわくしてて、なんか落ち着かない。」
「そ、そうか。」
一瞬でも彼の言葉に期待した自分がバカだった。ますます苦手だなんて言える空気ではなくなり、気疲れだけが多田の心を蝕んでいく。
「楽しみ過ぎて寝られないなぁ。あ、でも・・・寝られないからって、今日はなしですからね?」
「・・・うん。」
多分、今日は強請られても、彼の愛撫を受けても反応しない自信があった。彼にそんな悪戯を仕掛けようという考えがそもそも抜け落ちていた。休み前、いつもの自分なら心身共に解き放たれて、柚乃宮が怒り出す境界線を見極めながら攻防を繰り広げているだろうけれど、今夜は見事に余裕がない。
「聡さん、寝ます? なんか、顔が疲れてる。」
嬉しそうに弾む声を横目に多田は項垂れる。緊張がさらなる緊張を呼んで全く眠気はなかったが、柚乃宮に促されて布団に潜り込んだ。
時計の秒針の音がカチカチと妙に頭へ響いてくる。柚乃宮の穏やかな寝息が聞こえてきてもなお、暗闇の中、多田の目は冴えたままだった。
* * *
これから出立だというのに、どうも昨夜から多田の様子がおかしいような気がする。しかし漠然とした違和感はようやく柚乃宮を納得させるに至る。はしゃぐ勢いのままに隣りで座る多田の手を握ったその時。
「ッ!」
ビクッと彼の身体が震えて、多田の顔が硬直していることに気付く。飛行機が地上から離陸したあとは、すっかり外の景色に魅入られれていたから、今までそんな多田の様子に気付かなかったのだ。
気まずそうに逸らされた視線を追い掛けて、柚乃宮は多田の顔を覗き込む。
「聡さん」
柚乃宮に問い詰める意図はなかった。ただ一応確認した方がいいのかという程度の気持ちだった。
しかし多田がすっかり怯えるような顔をしたので、つい柚乃宮は小声で笑う。いつもならすぐにでも多田の不服そうな顔を拝めるはずなのに、雲の上にいる多田には余裕の欠片もなさそうだった。
「もしかして、飛行機苦手だったんですか? これから十二時間以上乗りますけど、平気?」
「・・・大丈夫、だよ・・・。」
とても大丈夫そうな顔色ではない。笑顔は引き攣っているし、目の奥が笑っていない。
柚乃宮は窓の景色としばらく別れを告げて、多田の肩に頭を寄せる。
「ッ・・・。」
「くっつくと、少し安心するでしょ?」
「あ、あぁ・・・。」
どうせ二人の事を誰も気に留めていない。多田のために、このたびのフライトではそう思うことにしよう。
血の気の引いた少しいつもより冷たい多田の手を引き寄せて、柚乃宮は自分の手を握り合わせて温める。困ったように、そして落ち着きなく目が彷徨う多田を見るのは珍しいことだ。そんな彼が新鮮で、柚乃宮は思わぬ収穫に多田に隠れて頬を緩める。
「足冷えません?」
動揺と共に多田の腰に押し潰されていたタオルケットを引っ張り出し、ビニル袋を破って多田の足腰を包み込む。
多田が甲斐甲斐しく世話をしてくれることはあっても、彼の面倒をみるのは今まで二人の関係にはあまりない。
「天候も良いってアナウンスしてましたから、もうすぐドリンクサービスも始まりますよ。あったかい物、飲みましょ。」
「・・・うん。」
声を発する時さえおっかなびっくりな多田の姿に、柚乃宮はつい吹き出す。
「ごめん。せっかく楽しんでるのに・・・。」
本気で申し訳なさそうに多田が謝罪してくる。苦手だという事を言いにくくしてしまっていたのは、自分のはしゃぎっぷりが原因だと反省し、柚乃宮は多田の言葉に首を横へ振った。
「こんな聡さん貴重だから、今も楽しいですよ。」
小声で耳打ちすると、多田が少し肩の力を抜いて苦笑する。
本気で怯えている多田には少し申し訳ないけれど、遠出をして正解だ。
楽しみ半分、多田のメンタルのために半分、このフライトが無事過ぎてくれるように祈る。窓の外に目をやると、海を越え、ちょうど大陸へと差し掛かったところだった。
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朝霧とおる