宮小路の部屋はぬるま湯だ。身体も頭もぐずぐずに溶けて、甘ったるい空気から抜け出せなくなる。帰りたくなくて、でも帰らねばならなくて。宮小路がずっとここにいろと言うものだから、危うくその罠に嵌ってしまうところだった。
足腰が痛い。でもそれよりもっと厄介なのは、宮小路の手が未だに肌を這っている感覚がすることだ。一日中弄り回されて肌の感覚がおかしくなってしまったのかもしれない。
「永井さん、ご自宅までお送りしますよ。」
「いいえ、遠くありませんから。」
まだ目を合わせるのは恥ずかしいのだが、ここまで尽くされると、さすがに宮小路の言葉を戯言だと邪険にすることはできない。
信じる信じないという話ではなく、未知の生物でも見ている気分なのだ。見抜くだけの眼力がないだけかもしれないが、変わり者の御曹司に悪意は見当たらない。
宮小路の申し出を丁重に断り、広い玄関に立つ。大柄な男がすっかり目尻を下げ萎れているのがおかしくて、永井は自分から宮小路の手を取って握り、名残り惜しむようにそっと離した。しかし離したはずの手が勢いよく引っ張られ、永井の身体は傾いて宮小路の胸の中に飛び込んでしまう。
「ああ、もう、そういう可愛いことをしないでください。帰したくなくなります。」
「こ、困ります……」
「たくさん困らせたい。あなたが私を見てくれるなら、怒ってたって構わないんですよ。」
悪戯っ子のように笑って、冗談です、と耳元で彼が囁く。
「永井さんの声が戻ってよかった。次はもうちょっと優しくできるように善処しましょう。」
次があると言われ心踊っている時点で、宮小路の術中に嵌っている。いい歳をして流されてばかりなのはいただけない。もう少し主体的に生きたいものだが、宮小路の手は温か過ぎて、今まで抱えてきた葛藤を全て包み込んでしまうのだ。
喉の調子が回復してきたのは午後になってからだ。発声を控えたことに加え、宮小路が蜂蜜入りの生姜湯で手厚く面倒を見てくれた。見慣れない液体は痛めた喉に優しく、ほんのり甘い香りを永井の記憶に刻み込む。
永井にとっては特別な休日だったが、宮小路にとって恋人に対して入念なケアを施すのは当然のことらしい。逐一驚いている永井に、宮小路は楽しげに笑ってみせるだけだ。世界はこんな砂糖菓子のように甘く、メレンゲのように柔らかい世界なのだろうか。まだまだこの世界は自分の知らないことだらけだ。
「今週末、お迎えに上がってもよろしいですか?」
「今週は……立て込んでいますので……」
グラグラと誘惑に揺り動かされながらも踏み止まったのは、メゾン・マリィの仕事が本当に厳しいスケジュールだからだ。トラブルがあれば間違えなく休日返上になる。浮世離れした恋人と逢瀬を楽しんでいる場合ではないのだ。平凡な自分に舞い込んだまたとないチャンスを、自ら放り投げて遊び倒せるほどの度胸は永井にはない。
「永井さん。お昼くらい、いいでしょう?」
笑ってはいけないけれど、宮小路の必死さがおかしくて、永井の口元は緩む。お伺いを立てるのはポーズだ。返事を待っているフリ。実際は永井が首を縦に振るまで、しつこく食い下がってくるに違いない。永井は譲歩できる範囲で返事をする。
「お約束はできませんが、大抵お昼は『アクアリウム』にいます。」
「わかりました。会えない日は永井さんに電話します。」
「……。」
毎晩彼からの着信に一喜一憂する自分が容易に想像できる。しかし声を聴きたいと思ってくれることが永井の胸に響いてくる。じわじわと込み上げてくる嬉しさを否定できない。
誰かと恋愛するということを、ずっと知らずに生きてきた。ままごとか本物か、永井に見極めることはできなかったが、悲鳴を上げる足腰を暫し忘れるくらいには満ち足りた気分だった。
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朝霧とおる