当然のように食事へ誘ってくれても、信じ難くて、どこか他人事だ。心寂しく過ごしてきた今までが嘘のようで、少し前の自分すら霞み始めている。我が身に起こっていることとは到底思えなくても、日々注がれる熱い眼差しと触れ合いが自分の存在を少しずつ変えていく。
身を切るような思いで誘いを断ったのは、翌日に控えたメゾン・マリィの打ち合わせに手抜かりがあってはならないからだ。気負うことはないと囁く宮小路に大きく心を揺さぶられたが、永井はどうにか踏ん張って真っすぐ自宅へ戻ることを選んだ。
この一週間というもの、寝付きも目覚めも良く、心の澱が一つひとつ落ちていくような不思議な感覚の中にいる。今までなら翌日に重要な仕事が控えていると緊張が祟って目が冴えてしまい、当日妙なハイテンション具合を堪えるのに苦心する。しかし待ち合わせのホテルへ向かう永井の足取りは軽く、気分もすっきりとして、憑りつかれたような緊張感は全くなかった。
「ちょっと早かったかな。」
腕時計の針は約束時刻の二十分前を指している。姿を探すものの、それらしき人物は見当たらない。メゾン・マリィのオーナーとは初めて会うため、宮小路がロビーで引き合わせてくれることになっていた。その後すぐに彼は所用を済ませるため離席してしまうらしい。
しかし宮小路には申し訳ないが、彼の視線を浴び続けていると仕事に集中できない。いない方が永井にとっては好都合だった。
彼が永井の気持ちを知ったらどう思うだろうか。
前の自分なら彼が機嫌を損ねることを危惧しただろうが、今は別の考えが頭に浮かぶ。
きっと柔和な微笑みを浮かべながら、甘い言葉を重ねてくるだろうと楽観的に考えられるのだ。
自分は変わった。たった一人の人間に考え方まで塗り替えられてしまうのだという衝撃的な事実を身をもって体感している。
辺りをもう一度見渡し、ロビーのソファへは向かわず、中央の巨大モニュメントの前に立つ。高級ホテルなど縁がないから足を踏み入れたこともない。せっかくの機会だから堪能しようと、青い星空を閉じ込めたようなガラスのモニュメントに目を凝らした。
『アクアリウム』の看板や店内の水槽を思わせる色彩に親近感が湧く。すっかり見入っていたので、背後で人が立つ気配に全く気付かなかった。
「永井さん。」
「ッ……宮小路さん。」
「私の事もそれくらい熱心に見てくださると嬉しいのですが。」
際どいことをサラリと言ってくる男を見上げる。グレーのスーツにネクタイを締め、磨き上げられ埃一つ見つからない黒革の靴を履きこなしている。今日は随分畏まった格好をしており、完全に正装だった。永井も仕事モードで出向いてはいたが、二人並ぶと完全に違和感がある。軽装過ぎたのではないかと落ち込んでいると、相変わらず察しのいい宮小路がすかさずフォローを入れてきた。
「これから兄の婚約者に会うので、こんな堅苦しいんです。暑い日に勘弁してほしいものですよ。」
「それは……おめでとうございます。」
「ありがとうございます。次は私たちの番ですね。」
「ッ、宮小路さんッ!」
誰かに聞かれやしないかと慌てる永井をよそに、宮小路は呑気に微笑んでみせるだけだ。カツカツと快活な足音が近付いてきて、永井は無理矢理意識をそちらへ向ける。
「彼女がメゾン・マリィのオーナー、マリィ・オードランさんです。」
これまた目を見張るほどエネルギッシュで美しい女性が現れて、永井の顔は一瞬にして緊張に満ちる。
しかし宮小路の手が永井を宥めるように肩を軽く叩き、宮小路の笑みに僅かばかり肩の力を抜いた。
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朝霧とおる