決して大きな物音ではなかったけれど、不規則な息遣いが耳に届いて、まどろみから意識が浮上する。
音と言えば、窓を打つ雨の方がよほど激しいのに、聞き慣れないことが浅い眠りを解いてしまったのかもしれない。
どこから聞こえてくるのだろうと瀬戸が耳を澄ますと、廊下の方だった。もっと注意深く音を拾うと、多分トイレの方。
見慣れない天井なのは、強引に連れ込まれた坂口の部屋だから。瀬戸にとってずぶ濡れであることは一大事ではなかったのに、見る側からすれば悲惨な有様だったのかもしれない。傘ぐらいケチらずにコンビニで買えば良かった。そうすれば坂口や宇津井の目に留まることもなかっただろう。
「ッ・・・ふぅ・・・」
雨以外に目立った音のしない夜。瀬戸は耳に届いた坂口の息遣いを気まずい気分で聞いた。こんな事、気付かない方が良かった。
布の擦れる音は規則的で速い。坂口が耽っている行為にすぐ思い至ってしまったのは、同じ男だから仕方ないだろう。
さほど長い時間ではなかったはずだけど、妙に神経を尖らせて聞き入ってしまったから、坂口が寝室へ戻るまでの間、生きた心地がしなかった。
意図せず気付いてしまった行為に、気持ち悪さよりも背徳感に苛まれる。居た堪れないと思いつつも、脳裏に光景を思い浮かべて身体の奥で何かが湧き上がろうとしている自分にも戸惑った。
昔、自分を押し倒して触れてきた手は、ただ恐怖でしかなかった。押し付けられた熱は痛みしか呼ばず、声も上げられずに身体を震わせるだけだったのに。
あの時と何が違うんだろう。人の劣情であることには変わりない。欲望が直接自分に向けられているわけではないから大丈夫なのか。ただ身体の奥で渦巻くものの正体がわからない。息を詰まらせる坂口を反芻して、その光景を思い浮かべて顔を熱くするなんて変だ。
「わかんない・・・。」
明日、目覚めて坂口を直視できる気がしない。瀬戸が急に不審な様子を見せれば、坂口だっておかしいと気付くだろう。聞いてしまった事を悟られたくないし、きっと彼だって聞かれていた事実を知りたいだなんて思わないはず。
なかった事にしたい。そう思うのに、目の前で目撃してしまったかのように脳裏で描いてしまう自分が理解できない。他人事だと割り切って、早く忘れ去ってしまえばいい。目に焼き付いてしまった妄想の産物が、瀬戸を困惑させた。
* * *
「・・・と・・・せ、と・・・瀬戸。」
「ん・・・?」
揺り動かされて起こされるなんて、久しく経験がなかった。薄目を開いて視界に飛び込んできた人物を見ても、思考停止した頭では状況の把握ができない。
「瀬戸、朝だよ。会社まで近いけど、もうそろそろ起きて。」
「・・・あッ。」
寝ぼけた頭がついに覚醒して、ようやく昨夜の事態を呑み込む。思い出さなくていい事まで思い出して、坂口の顔から咄嗟に目を逸らした。
どうしよう。顔が熱い。耳まで赤くなっているかもと焦ったが、坂口は綺麗に畳まれた洗濯物を指して微笑んでくるだけだった。
「瀬戸、もう服乾いてるから。そこな。」
「あ・・・はい・・・ありがとう、ございます・・・。」
「パンとコーヒーでいい?」
「・・・はい。」
朝ご飯は職場のデスクで済ませることが多いから気にしていなかったが、坂口が瀬戸にお伺いを立てつつも、キッチンからは香ばしい匂いが漂っていた。すでに用意を終えているのは明らかなので、下手に否を唱えず頷く。坂口はキッチンへ引っ込み、予想通り、プレートにパンを乗せて現れた。そして再びキッチンへ戻りコーヒーを手にやってくる。
「洗顔とか、好きに使っちゃって。」
「すみません、お借りします・・・。」
「そんな畏まらなくていいって。な?」
坂口の笑顔にぎこちなく頷いて、洗って乾かしてもらった服を手に洗面所へと向かう。鏡の向こうにいる自分の髪は四方八方に跳ねていて、意外な熟睡具合を物語っていた。疲れに負けて眠りは深かったのだろう。
水で顔をすすぐと、顔の火照りも、悶々とした心も、幾分凪いでいく。
「忘れた方がいい・・・。」
フロアは同じだけど、席が特段近いわけではないし、常に顔を突き合わせるわけではない。昨夜うっかり耳にした営みは、なかった事にしようと決めた。
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朝霧とおる