すっかり首を垂れて立っている小さな子どもを、世羅は抱き上げて膝に乗せた。世羅に叱られるものとばかり思っていたのだろう。レイが戸惑ったように世羅を見つめてくる。
世羅がレイを執務室へ呼び寄せたのは、公務を終えた夕餉前の時間だった。フェイを伴わずに二人きりで会うのは初めてだ。国の君主に一体どんな言葉を掛けられるのだろうと、レイの顔は不安に満ちていた。
すっかり怖がられていることに内心苦笑しつつ、世羅はレイに顔を近付け、彼と目を合わせる。不安そうに揺れる瞳を気の毒に思いながら、努めて優しくあやしながら話を切り出す。
「怒ってはいないよ、レイ。心配だっただけだ。」
「世羅様・・・。」
「そなたは皆を困らせたことをわかっている。そうだろう?」
「・・・はい。」
消え入りそうな返事に、世羅は泣いてくれるなよと密かに念じながら、教え諭すように語りかける。
「そなたに災いがなくて良かった。皆、安心しているよ。だからそんな顔をするな。」
怒られるわけではないと悟ったのか、腕の中にあるレイの強張った身体から力が抜けていく。
「ほら、よく見てごらん。」
念入りに磨いたカガミでレイの顔を映してやる。すると初めて自分の顔を目にしたのか、不思議そうにカガミの向こうに映った自分を見つめた。
「どんな顔をしている?」
世羅はレイの顔を覗き込んで微笑む。
「・・・母上と目が・・・似ているような気がします。」
カガミにそっと手を伸ばし、レイの指先が瞳の上をなぞる。
「父君はどんな顔をしていた?」
「父上は・・・鼻が高くて・・・」
「そうか。そなたは鼻はまだ小さいから、わからぬな。」
世羅は息をするのも一苦労に見える小さな鼻をツンツンと指で突く。レイは瞬きをするのも忘れたように、食い入るような様子でカガミの中の自分を見つめたままだった。
「レイ。そなたの中で生きておるだろう?」
「・・・はい。」
「出会えば、いつか必ず別れがある。生きていく間、それをずっと繰り返す。」
「ずっと・・・」
「そうだ。」
まだ五年しか生きていない子どもに、ずっとという言葉はあまりにも曖昧かもしれない。理解しろというのが酷な話だ。しかしレイは真剣な面持ちで、どうにか世羅の言葉を汲み取ろうと耳を傾けている。
「決して失いたくない人を失う日もある。けれど、途方に暮れたとしても、自分を見放してはならぬ。」
自分の生を全うできるのは自分だけ。
本当は、世羅が自分自身に言い聞かせたい言葉だった。
レイには難しかったらしい。首をちょこんと傾げて困った顔をする。世羅は気にしなくて良いとだけ告げ、小さなレイを抱き締めた。
いつか、自分はフェイを失うかもしれない。公務を投げ出し、ひたすら内に籠って、いっそフェイを追い掛けたいと、その衝動に明け暮れるだろう。
けれど世羅が生きることを投げ出したとして、果たしてこの世界に何が残るだろう。臣下や民を路頭に迷わせ、フェイは遠くどこかで世羅の行いを嘆くかもしれない。
この王宮に囚われている自分は、フェイに何かあったとしても駆けつけることすら叶わない。そして年の半分も共に生きることは叶わず、ただその背中を見送り、追い掛けたい衝動を堪え続けるのだ。
しかしそれでも思う。自ら生きることを手放したら、この甘く切ない想いすら消えてなくなってしまう。熱い想いを抱き温め続けた時間が、一刻も無駄ではないと納得できるのは、己以外誰もいない。自分を手放してしまったら、大切な想いごと投げうってしまうということだ。
「この足で、たくさんの人に出会ってきなさい。そしてここへ帰ってきたら、一番に私のところへ来て、旅の話を聞かせておくれ。」
今は守られるだけの幼子もいずれ逞しくなる。きっとこの春別れ、来る冬に再び会う頃には、見違えるほどの成長をして驚かせてくれることだろう。
「ソウ様とも、たくさん歩くとお約束しました。」
「そうか。楽しみだな。」
「はい。」
部屋へ入ってきた頃は怯えて委縮していたレイだが、もうすっかり世羅に懐いて首に抱き付いてくる。次の瞬間、大合唱したレイのお腹に世羅は笑って、レイは恥ずかしそうに鳴ったお腹を見つめた。
「今日は一緒に食べようか。」
「はい。」
嬉しそうに頷いたレイに感謝したいのは、むしろこちらの方だ。レイがいるなら、当然フェイもついてくる。他の臣下に示しがつかないという小言を、レイの力を借りれば多少封印できると思ったことは否めない。そして彼を味方につければ、フェイとの時間が作りやすいのも事実だ。
「さぁ、そなたの師匠も呼んでおいで。」
「はい。キィ様も?」
「キィは・・・」
思わぬ横やりに目を泳がせながら、結局世羅は肩を落として頷く。レイの目が輝きに満ちて世羅の言葉を待っていたので、ガッカリさせるようなことは言えなかったのだ。
小さい背中を見送る。パタパタと忙しなく廊下に響く足音は、まだ見習い薬師だった幼いフェイを思い起こす、懐かしい足音だった。
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朝霧とおる