身体に駆け巡っていた悪寒は、温かい布団と解熱剤、そして昼過ぎまでそばで看病してくれた涼介のおかげで、夕方までには治まった。依然微熱はあったものの、一晩しっかり眠れば、また明日はいつも通り過ごせるだろう。
夕方、あまのがわ喫茶室にアルバイトへ向かった涼介は、いつもと変わりないように見えた。熱でふわふわと落ち着かず、幾度も不安に苛まれて怒っていないかしつこく聞いてしまった。しかし涼介は気分を害したりせず、結弦が尋ねるたびに、怒っていないと否定してくれた。
大学は当然ながら休んでしまった。けれど心強い飯島という友を持ったおかげで、被っている科目はノートを見せてもらえることになった。連絡先を交換してはいたけれど、涼介と父以外の人に初めてメッセージを送った。
しかし涼介にも大学を休ませることになり、それだけが気掛かりだ。始まったばかりの講義を休んでしまって支障がないだろうか。涼介の勉強は結弦の学ぶものと全く違う分野だから想像もつかない。涼介は気にするなと言ってくれたけど、風邪が良くなったら、ちゃんと謝ろう。
涼介がアルバイトで部屋を空けている間、結弦は安心してぐっすりと眠った。夢も見なかった。再び目覚めた頃には夜の八時を回っていて、帰宅の予感に胸がそわそわと落ち着かない。
きっと戻ってくるという確信は、結弦にはどんな薬よりも心の安定剤になる。家に残してきたカタツムリだけが気掛かりだったが、明日涼介のお許しを得て戻った際には、たくさんキャベツの葉を入れてやろうと決めた。
玄関で鍵が差し込まれる音がして間もなく、涼介が駅前にあるスーパーマーケットの袋を提げて帰ってきた。
「涼介」
「ただいま。寝られた?」
「うん。」
「そっか、良かった。ご飯作るから待ってて。」
「うん。」
ちょっと疲れた顔をしているけれど、いつも通りの涼介だった。安心して、布団を被り直す。
キッチンでコンロの火を付ける音を聞いて、夕飯は何だろうかと気にかかる。あまり重たい物は入りそうになかったので、作り終えてしまう前に伝えておきたかった。せっかく作ってくれても食べられなかったら申し訳ない。
「涼介」
「んー?」
張りのない声でも涼介はしっかり結弦の声を拾ってくれる。キッチンに身体を残したまま、涼介が部屋を覗き込んでくる。
「ご飯、何作るの?」
「煮込みうどん。柔らかめにするね。」
「うん。」
どうして涼介は結弦の食べたい物を的確に悟ってくれるんだろう。もしかして涼介の思考回路は至って一般的で、自分が著しく推察能力に劣っているのかもしれない。
涼介は、すぐに出来るから待っていてとだけ言い残し、またキッチンスペースへと姿を消す。姿は見えなくても、湯の沸く音や、何かを包丁で刻んだり箸で混ぜたりする音が絶え間なく聞こえてきて、彼の存在を教えてくれる。自分のために涼介が心を砕き時間を割いてくれることが、結弦にはこの上なく嬉しかった。
* * *
汗ばんだ身体をさっと流し、再び身体を冷やさないようにバスルームを出る。昔のように涼介が髪を乾かしてくれて、幾度も髪を梳いていく手にうっとりと身を委ねた。
ソファで寛ぐことは許されず、ベッドへ押し戻される。結弦は黙って涼介の言う通りに従い、まだ温もりの残っていた布団にすっぽり包まれることを選んだ。
自分は熱を出しているし、涼介はまたソファで寝ると言うんだろうかという心配は徒労に終わった。バスルームから出てきた彼は他の事に気を取られることなく、真っすぐベッドへ入ってくる。
風邪がうつってしまうかもしれないという言葉は飲み込んだ。まだ本調子ではない気怠い身体が涼介のぬくもりを欲していたからだ。
隣りに収まった涼介をジッと見つめる。涼介はまた少し困った顔をしたけれど、もう昨日のように声を荒げることはなかった。
「ねぇ、結弦。」
涼介は結弦のことを呼びながら、そっと頭を撫でてくる。彼の声は穏やかで低く、心地良い声。声を発する代わりに目で答えると、若干ぎこちなく涼介が微笑む。
「キス・・・してもいい?」
「・・・キス?」
「そう・・・キスしたい。」
そういえば、昨日も彼は結弦にキスをした。しかしどうして彼が自分にそんなことをしたいのかがわからない。戸惑って答えに窮していると、涼介が結弦の答えを待たずに額に口付ける。次に頬、手の甲、そして少し躊躇った後、結弦の唇に温かい涼介の唇が重なる。
「結弦、俺にこういう事されるのはイヤ?」
嫌ではないので首を横へ振る。ふにゃりと触れた柔らかい感触がいつまでも唇の上に残っている気がする。
「おやすみ、結弦。」
「うん・・・おやすみ。」
涼介の溜息の訳はわからなかったけれど、彼の眉間に皺は寄っていない。きっと大丈夫、怒ってはいないんだろう。
お腹も丁度良く満たされ、まだ結弦の体内に宿る微熱が眠気を誘う。おやすみを言ったのに、涼介はジッと結弦を見つめたまま瞼を閉じようとはしない。けれど襲ってきた眠気に結弦は逆らうことができず、徐々に意識を手放していく。意識が途切れる最後の最後、結弦は遠くで深い溜息を聞きながら、温かく優しい眠りの世界へ落ちていった。
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朝霧とおる