キスしてしまった。
柔らかく触れた唇が突き放した今でも熱を持っているように感じられる。
結弦は、何をするんだと怒ることも、抵抗することもなかった。
ただ不思議そうに涼介を見上げた結弦は、どこまでも彼らしい。彼は唇を奪われたことよりも、帰ってくれとまくし立てた涼介に困惑し、悲しんでいるようだった。
本当にわかっていない。涼介がどんな目で見ているのか、あのまま部屋に上げて、何もせずに帰せるわけがないのに。湧き上がってきた劣情はとても凶暴で、あのまま結弦を追い出すことができなければ、獰猛な牙を向けていただろう。
強く抱き締めて押し倒したりすれば、さすがの結弦も動じただろうか。しかしどれだけ考えてみても、結弦が狼狽える様子は想像できなかった。とてもマイペースで、他人の心の機微には疎い彼。
恋人も作らず結弦のそばにいるのは、結弦のことが好きだからだ。他の誰かに一ミリだってこの気持ちを分けることはできない。そんなことが可能なら、とうにこの不毛な恋は思い出に変えて、別の誰かと恋をしていたと思う。
「結弦のバカ・・・。」
本人が目の前にいなかったとしても、心の底から結弦に悪態をつきたくなるなんて初めてだった。恋人の有無など聞くものだから、一瞬でも期待してしまった自分が恨めしい。
結弦の涼介に対する独占欲はきっと幼馴染であることの域を超えないだろう。誰かに入れ知恵されて不安を抱いたに過ぎない。決して涼介の気持ちと交わるものであるはずがないのに。
明日、結弦に謝って終わりにしよう。そうすれば彼は大して気にも留めず、魔が差したとでも説明すれば、今までとなんら変わりなく接してくれる気がした。
虚しい気持ちは拭えない。けれど絶縁されるよりはマシだ。結弦が変わり者で良かった。彼の場合、突き放す方がかえって逆効果になり頑なに涼介の手を離そうとしないだろうから。
服を乱暴に脱ぎ捨ててバスルームへ閉じこもる。熱いシャワーをどれだけ浴びても、涼介の心がすっきりと晴れることはなかった。
* * *
これほど暗澹たる目覚めは珍しい。それほど涼介は自分のしてしまったことにショックを受けていた。今までの涙ぐましい我慢はなんだったのだろう。手を出せば後悔する。そんなことは最初から嫌というほどわかっていたはずなのに。
眠りに落ちたものの浅い睡眠は、涼介に苦痛な夢しかもたらさなかった。繰り返し夢の中で結弦からの拒絶の言葉を聞き、もう消えてしまいたいくらいだ。
食欲はちっとも湧いてこなかった。鏡で見た顔も心なしかやつれている。顔だけ冷水で洗い流し、何も腹に押し込めることなくノロノロと大学へ行く仕度をした。
今日ばかりは講義を受けたところで何の収穫も得ることはできないだろう。しかし家に閉じこもって休んだところで、かえって気が滅入るような気がした。出掛けるだけは出てみて、外の空気を吸い陽の光を浴びれば、多少人間らしくいられるだろうと思ったのだ。
ドアのチェーンを外し、鍵を回す。ドアノブを捻っていつも通りの力加減で押してみるものの、なぜかドアが開かなかった。
「・・・あれ?」
今度は相当に力を込め、涼介は肩から圧し掛かるようにドアを押した。何かがドアの前を塞いでいるのは間違えない。隙間から身を捩って外に出ると、ドアに寄り掛かっていたのは、昨夜涼介が追い出し帰ったはずの結弦だった。
「結弦ッ!?」
叫んだ涼介の声に驚いたのか、うとうととドアにもたれかかっていた結弦が身体を震わせる。
「結弦、何でいるんだよ!? ちょっと、起きて!」
一旦部屋に招き入れたのは夜の九時前だ。今はもう朝の七時を回っている。かれこれ十時間近く、肌寒い春の外気に晒されてうずくまっていたことになる。
涼介の中で昨日彼との間に起った事件は吹き飛んでいた。瞼を薄っすら開けてぼんやりとする結弦に触れると、思いのほか身体が火照っている。どう考えても熱のある身体だった。
「結弦、立てる?」
こちらの声が聞こえているのかいないのか、ただ呆然と見上げてくるだけなので、涼介はすぐに結弦を抱え上げ部屋のベッドへ直行した。
こんな風に突き放したことはなかった。結弦は途方に暮れ、思考を停止させたまま、ここでうずくまっていたのかもしれない。突き放すことでしか結弦との距離を守れないと思った涼介へ、結弦からの声なき抗議のように思えた。
自分を必要としてくれるなら、何をしてしまったとしても、恐れずそばにいることを選べば良かった。きっと寒いことなど気にも留めず、ずっとドアを見つめていたかもしれない。結弦のことを全てわかったつもりでいたけれど、本当の意味で彼の持つある種の一途さを舐めてかかっていた。
「結弦、ごめんな。」
結弦をベッドへ横たえた後、迷うことなく彼の手に唇を寄せる。またしても彼は涼介のそういった行動を不思議そうに黙ったまま見つめている。
体温計を取りに行こうと立ち上がりかけて、服の袖が引っ張られる。もちろん引っ張ったのは結弦だ。
「涼介・・・。」
「結弦・・・どうした?」
「怒って・・・ない?」
「・・・。」
結弦を不安にさせるものは涼介の怒り以外ないのかもしれない。怒っていないかと、結弦の口から尋ねられることが最近多かったように思う。
「怒ってないよ。」
「うん・・・。」
涼介は結弦の目を見て、しっかりとした口調で断言した。
むしろ怒るべきは結弦の方だ。しかし涼介にこんな仕打ちをされてもなお、結弦は怒りという感情とは無縁らしかった。
「熱、測ろう?」
「うん。」
「高かったら、病院行こう。」
「行かなくて、大丈夫・・・。」
「でも・・・。」
「寝てれば、大丈夫。」
「わかった。」
「ここにいても・・・いい?」
「もちろん。」
涼介の言葉を聞くと、ホッとしたように結弦が肺の中に溜め込んでいた熱い息を吐き出す。
もう自分の物差しで結弦の感情を測るのはよそう。彼には彼の確固たる世界があり、涼介の価値観で照らし合わせてみたところで正解など導き出せない。きっとまた間違えてしまう。
結弦の熱が下がり、いつも通りの自分たちに戻ったら、少し自分の気持ちを打ち明けてみよう。彼の反応を見てから自分たちの関係を探した方が、結弦を傷付けないで済む気がした。
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朝霧とおる