授業を終え、電車に乗り、自宅とあまのがわ喫茶室のある駅で下車する。もう身体に馴染みつつあるこの工程は、結弦に目新しさよりも安心感を与えていた。
必修科目で飯島と過ごした後、彼の教えてくれた水族館の話を思い出したので、あまのがわ喫茶室で合流した涼介の顔を見るなり、忘れないうちに彼を誘った。
「涼介」
「うん?」
「水族館、行きたい。」
「水族館? いいよ。今週末にでも行く?」
「うん。」
小さい頃から、どこへ行くにも涼介と一緒だった。だから今も知らない場所へ出掛ける時は涼介を誘うのが自分の中では当然のこととして定着していた。しかし涼介はどうだろう。この二年の間、結弦の知らない場所へ一人で行ったりしたのだろうか。そんなことを考え始めると、妙にやるせなく思えてくる。いつだって自分を誘ってほしいのに。
「涼介」
「どうした?」
涼介は呼び掛けには答えてくれたが、視線はティーカップやティーソーサーなどの洗い物に向けられたままだ。
「水族館・・・」
「うん?」
「もう、誰かと行っちゃった?」
「行ってないよ。」
見たこともない涼介の彼女という存在が、結弦を不安に陥れる。何故不安になるのかは自分でもわからない。けれど気になって、そんな人はいないよ、と言ってほしくて、聞かずにはいられなかった。
「涼介は彼女いるの?」
涼介から返ってきたのは苦笑だった。
「いないよ。」
「本当?」
「結弦、今お客さんいるから、あんまり長い私語はダメ。」
涼介が少しわざとらしく顔を顰めて見せたので、結弦の言葉を窘めつつも怒っているわけではないのだとわかる。
カランコロンと入口で鐘が鳴る。食い下がって話を聞きたかったが、来客に口を噤んで渋々カウンターを離れるしかなかった。
* * *
二人で肩を並べて帰った先は涼介のアパート。一度気になり出すと納得するまで考え続けてしまう。今はいなくても、前はいたかもしれない。涼介が自分以外の誰かと仲良くする姿は想像したくなかった。大切な人を盗られてしまったように感じて、胸が苦しくなる。
帰り道、ずっと涼介のことを見上げ続けた。結弦の視線に気付いているはずなのに、何故か涼介は結弦の方を見てくれなかった。こっちを見てよ、と珍しく叫びたくなる。しかしその気持ちをなんとか堪えていると、優しく宥めるように肩を抱かれて部屋の中へ入るよう促された。
「結弦」
「うん・・・。」
「どうして俺に彼女がいるって思ったの?」
どうしてだっけ、と考え、すぐに今朝の一件、飯島との会話が原因だと合点がいく。そのまま涼介に告げると、涼介は困ったものを見るように苦笑した。
「結弦は? いるように思った?」
「うん・・・いるかもって。」
「どうして?」
「涼介、かっこいいし。」
何故だかわからなかったが、結弦の言葉で涼介はさらに困ったような顔をする。
「そう? さっきも言ったけど、いないよ。いたらこんな風に結弦と会ってない。」
「いたら・・・もう会えない?」
「そんなことはないけど・・・一緒にいられる時間は減るだろうね。」
「そっか。」
それは凄く嫌だなと直感的に思った。会いたくなって押し掛けても、会ってもらえない日がくるなんて、とても考えたくない。いつでも快く迎え入れてくれるのが結弦にとって当たり前だった。その相手が結弦ではなく別の誰かになる。そのことにどうしようもなく嫌悪感が湧くのだ。この心に巣食うモヤモヤの正体がどうにかわからないものかと、涼介の目をジッと見つめていると、彼は溜息をつきながら、すぐに結弦から視線をそらしてしまう。
「ずっと一緒がいいのに・・・。」
そらされた瞳に縋るように、結弦の口から無意識に言葉がこぼれ落ちる。涼介の袖を掴んで一歩身体を寄せると、息を呑んだ涼介に強い力で引き寄せられ、唇に柔らかいものが当たった。
なんだろう。どうしたんだろう。
されたことの意味が最初はわからなかったが、涼介の言葉で止まっていた思考が覚醒する。
「ご、めん・・・。」
「キス・・・。」
慌てて顔を離した涼介の顔は、今まで見たことがないくらい焦った顔をしていた。
「ごめん、結弦・・・帰って。」
「なんで? イヤだよ、帰りたくない。」
今夜も一緒に過ごせると思ってついてきたのに、涼介の突き放すような言葉に首を横へ振る。涼介が横にいると、とても安心して眠れるのだ。
「結弦」
「うん。」
「本気で言ってる?」
「うん。帰りたくない。」
「自分が何されたか、わかってる?」
涼介の顔が悲痛な面持ちに変わって歪んだ。
「わかってない。」
「涼介?」
「絶対、わかってない。」
人が変わったように結弦の理解できないことばかり並び立てる涼介に困惑する。涼介が悲しくつらそうな顔をしてきたことが、結弦にとって一番衝撃的だった。いつも彼は穏やかに笑ってくれるのに。仕方ないなと笑って結弦のことを気にかけてくれる。
しかし頑なになりがちな結弦以上に、今の涼介は一方的で乱暴だった。こんな彼を知らない。自分は彼の逆鱗に触れてしまったのだろうか。
痛いくらいの腕力で涼介に手を握られ、引きずられるようにして玄関の外に連れ出される。そして背中を押されて突き放された。
「今日は無理。帰って。」
「なんで?」
「ごめん。」
呆然としている間にドアがぴしゃりと閉まる。
結弦は随分と長い間、閉められたドアを見つめていた。
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朝霧とおる